強い個性を集団の場でアレンジする限界
今年に入って半年ほぼ毎日欠かさず続けてきた作業所の通所記録がストップした。
そして8月に入ってからは作業所に行くこと自体がウツになっている自分がいる。
大きな理由は作業所の中に居場所があるようでないからだ。
小さなNPOが母体となっている作業所であるがゆえに5年前に合併し、これまで10人ほどで作業していたスペースに25人近くの利用者・職員が入らざるを得なくなったからである。
これまで普通学級や大学での大講義を経験してきた自分にとってまったく気になってこなかったのだが、1年前の春から突然大人数でいることがしんどくなる場面が多くなった。
それと同時に自分の仕事に集中できなくなり、作業所内の利用者や職員の人間関係や会話、作業所そのもののあり方に集中がフォーカスするようになってしまった。
作業所外でもめんどくさいぐらい『もっとこうなればよくなるのにな』という話をほぼ毎日していて周囲を飽き飽きさせた。
よく考えれば合併前と合併後では作業所のスタイルは大きく変わり『障害者の居場所』から『障害者の職場』へ大きく転換した。
以前は家族のような関係も職場になっただけに仕事上しか深い関係を持たず多くを語らない場所になってしまったのだ。
その上に他の仲間もサービス利用者としての仲間である関係だけにつながりも薄くなり
お互いを思いあえる気持ちも以前よりも低くなった気がする。
私自身、なんの人間関係や信頼関係も築けていない仲間からエラそうなものの言い方をされて何度我慢したかわからないし、逆に我慢させたところもあったかもしれない。
人の好き嫌いも激しくマウントをとられるようなふるまいにも敏感で、なにより障害者や利用者としてひとまとめにされたり子ども扱いされたりするのが人一倍苦手だ。
だからこそ他の仲間は仲間で強いこだわりがあるだろうし、自分がわがままな分思いやりの気持ちを持って過ごしたいなと考えてきた。
私自身の思いが強過ぎるのかもしれないが
いまの正直な思いをまとめると、ただ与えられた仕事を毎日こなして終わる作業所ではなく、毎日通う意味が見い出せてそれぞれの利用者が作業所の中の仕事に固執せず自分のやりたいことを見つけられる場になればいいと思う。
ただ現実は甘くない。
コロナが始まってから作業所の収入を大半以上を占めていた出店がダメになり、食事も内職品もほとんど売れていない。
その上にコロナ以前に国の補助金を受け取るためだけに作業所事業に参入した会社が大きな社会問題となり、いまの制度では利用者が参加した仕事(事業)の収入のみからしか工賃が支払えないのだ。
通所している作業所でも本来は清掃業者がやるような草刈りの仕事をこれまで内職中心でやってきた班がやらざるを得なくなり、職員同士の関係も難しい部分がどうしても目についてしまう。
こういう状況を見ているととてもじゃないけど思いやりのある人間関係作りや利用者一人ひとりがやりたいことを見つけている余裕なんてないなと思ってしまうと同時に、自分の今後は自分で覚悟を持って決めないといけないなと感じる。
いまの作業所のあり方が100%悪いとは思っていない。
しかし障害当事者同士で毎日集まる価値がある場所に果たしてなっているだろうか。
5日間出勤できない僕にも問題があるのも事実だ。
行く前から作業所の中がガヤガヤしている絵が頭の中にできていてプレッシャーは感じるし、ある作業をやることについてはよく思っていない職員さんがいて罪悪感を感じている。
それぞれの利用者・職員のペースにあわせることを考え過ぎて大したことじゃないのに気をつかいすぎと言われるかもしれない。
自分の強い個性を集団の場でアレンジする限界を思い知っている今日この頃だ。
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