読書メモ:この国の不寛容の果てに
2016年、神奈川県相模原にある障害者福祉施設で19名もの入所者と職員が無残にも殺害された。
男は借金が膨らみ不安が膨らむこの国には障害者を養う余裕はないという正義感から事件を起こしたという。
この事件は、凶悪なひとりの人間が引き起こした事件と片付けるのではなく、とかく「生産性」「自己責任」が叫ばれるこの社会が、我々ひとりひとりの中に時間をかけて、ひっそりとしかし強固に根を這わせてきた内なる優成思想が生んだ現代日本社会の病理と腰を据えて向き合わねば、と考えさせられた。
(本文から抜粋)
2007年、世界各国で、貧困問題への意識調査が行われた(The Pew Global Attitudes Project)。 そこで、「自力で生きていけないようなとても貧しい人たちの面倒をみるのは、国や政府の責任である。この考えについてどう思うか」という質問に対して、「そう思わない」と答えた人が突出して多いのが日本だった。実に 38%の人が「助けるべきとは思わない」と回答したのだ。 他国を見ていくと、ドイツでは「そう思わない」と答えたのはわずか7%、イギリスでは8%、中国では9%、そして「自己責任社会」と言われがちなアメリカでさえ、 28%だった
"お・も・て・な・し"の国 日本は他国と比べても精神的に大きく追い詰められている。他者を心からもてなしているような余裕があるとは思えない。
まさに、貧すれば鈍す、だ。
生産性の高い人間にならなければならない、元気よく働かなければいけない、今日よりも明日の自分は成長していなければならない・・経済成長期に社会に植え付けられた価値観が個人に鋭く突きつけられ、人々を追い込んでいく。
生産性が低いのは本人の努力が足りないからだ、これまでサボってきた結果だ、自己責任だ。この自己責任という言葉によって、人間は社会やコミュニティから切り離され、孤立は加速していく。誰かの失敗は自分のチャンスだ。あいつよりは俺はまし、私は価値あるとホッと胸をなでおろすことができる。他者への寛容さは持つだけバカだ。
こうして、社会は不寛容さを日々加速させ、我々の心に内なる優成思想の種をまく。
分断をあおり続けるのではなく、立ち止まり、今一度寛容な社会へと舵を切るためにも、(不都合な真実かもしれないが)自分の中の不寛容さや内なる優成思想に認知するところから始めなければ。