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読書メモ:セロトニン

フランス文学界のロックスター、ミシェル・ウェルベックの新刊「セロトニン」を読了。
著者の作品を読むのは「ある島の可能性」、前作「服従」に続き3作目。

主人公は過去の思い出に浸る中産階級の中年男性。抗うつ剤の影響で性欲減退に悩まされ、過去の女性との思い出にうじうじと浸り、強い個人として生きることに対する徒労感と、抗うことのできない社会の変化、自身の老いに対する恐れと不安をいだきながら、日常を過ごしていく。

著者の作品はシニカルで人種やグループに対する露悪的とも取れる表現がウリのひとつ。風刺というには笑えないほどドギツクて、正直不快な表現もままある。この鋭さがミシェルウェルベックらしいといえばらしいのだけれど。
本作主人公の日本人彼女ユズの描写、とくに性的嗜好に関する表現は露悪的で、日本人女性はこんな風に見られてんのかと思うと不愉快ですらあった。

これまで読んだ作品でも共通するのは、上記のような露悪的で無遠慮な際どい表現とともに、本質的には西欧社会の歴史・政治・経済の現状とこれからに対する深い洞察に基づく中年男性のいいかっこしない心情描写、そして荒唐無稽とはとても割り切れないリアリティのあるSF的切り口が読者を引き込んでいく。

そんな作品たちは読後も晴れやかになるどころか、現代社会の生き辛さや、将来に対する不安を主人公とともに味わわされ、鉛を飲んだような重苦しい気持ちが続くのだが、それでもまた彼の作品を手に取りたくなる中毒性があるのだから不思議だ。

ところで、ウェルベックの小説はどこか村上春樹の小説を彷彿とさせるものがあるのは私だけでしょうか。
村上作品とは違い、ウェルベックの描く主人公は中年男性が多いけれど、彼らが厭世しているところ、なんだかんだいって女性と金には困っていないところ、社会に対する距離のとり方の不器用さなど随所で共通している。

ただ、著者の文学に対する姿勢は大きく異なっていると思う。文学が社会や人類に対して持つ力を信じて向き合っているであろう村上春樹に対し、ウェルベックの筆はどこまでいってもシニカルで斜に構えた印象があり、おそらく小説や文章である必然性は彼にはないのだろう。

ウェルベックが投げ込んでくる際どい球が社会にどう波紋を広げていくのか、私自身の内面を揺さぶるのか、過去作品を手に取り、時折顔をしかめながらも引き続き味わってみたい。


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