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夕焼けを眺めながら、暮らしの「余白」を考える。

特別な夜の記憶。

南ドイツの街「München(ミュンヘン)」では、毎年7月に「Oper für alle」というイベントが開催されている。訳をすると、「みんなのためのオペラ」。屋外でバイエルン国立管弦楽団の演奏を聴くことができる。しかも無料で。

僕たちは、Münchenのすぐ隣街Freisingで暮らしていた2016年にこのイベントへ出かけた。その夜のことを、妻は「2年間のドイツ生活で、ベスト3に入る素敵な夜だった」と言っている。

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座席はすべて自由席で、敷物などを好きに広げて、飲食しながらゆるやかにクラシック音楽を楽しむスタイル。服装も皆カジュアル。僕たちの前に座っていた家族は、パパママが音楽に耳を傾ける間、子ども2人トランプに夢中になっていた。

開演から、ゆるやかに日が落ちていく。
時に寝転んだり、時にお酒を飲んだり。そして本格的な演奏を楽しむ。
確かに、しみじみと、素敵な夜だった。

この夜は特別な思い出だけど、思い返せばドイツでは、ほかにも日常的「夕方」という時間の価値と魅力を感じることが多かったように思う。
仕事をはやめに切り上げ自宅に戻り、家族で散歩に出かける姿もよく見かけた。ボードゲームを楽しむ団らんの時間を大切にするという話もよく聞く。

「Oper für alle」のイベントも、ドイツの人たちにとっては、僕らが感じたような特別な夜ではなく、何気ない日常の1ページなのかもしれない。

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日々の「夕方」という時間の記憶。

日本ではどうだろう。

幼い頃の夕方の記憶は、なぜだかとても鮮明に残っている。
一日の学校生活を追え、自宅へ帰る。道の途中では、近所から夕ご飯の香りが漂ってきて、「この家、今夜はカレーかな」とか「あ、焼き魚の匂いがする」なんて思ってみたり。あたたかい記憶だ。

ところが日本でサラリーマンをしていた期間は、夕方の記憶なんて残っていない。夕暮れ時は仕事の最中に過ぎ去り、帰宅は下手すれば深夜だ。昼も夜も問わず、がむしゃらに働いて、「成果」「姿勢」を示すのが大切なことだと思っていた。


お花の仕事「yohaku」に込めた思い。

さて。
なぜ「夕方」の話をしようと思ったかというと…、9000キロ離れたドイツという国で目の当たりにした夕方の過ごし方が、僕がお花の仕事をしていく上で、一つの気づきとなっているからだ。

屋号に掲げた「yohaku」は、ふたつの意味を持つ。

「余白」と「夜は来る」。

「余白」は文字の通りで、「植物本来の魅力を活かした、余白のあるものづくりをしたい」「場所と花のバランスを見て、余白を感じられる空間づくりをしたい」など、フロリストとしてものづくりへの思いが込められている。

「夜は来(る)」は ――― ものすごい角度から当て字したなと言われたらぐうの音も出ないけど、ドイツを経験した自分だから提案できる価値なのでは?という、結構大切な意味を込めている。

僕たちは、昼間皆それぞれの立場で、がんばっている。
保育園や幼稚園も、学校も、仕事も。社会生活は、楽しいこともあるけど、気を遣うことだって多い。
だから、夜はほっとできる「時間」であってほしいし、夜を過ごす「自宅の空間」や「家族との関係」がもっと豊かになったら良いなと思う。

日本では、「夜」と気持ちを結び付けた表現の多くが、「明けない夜はない」「朝はまた来る」と、向上心を持って、前向きに伝えられることが多いような気がするのは、僕だけだろうか。もちろんそれも大事だけど、そればかりでは疲れてしまうと思うのだ。

昼間がんばっても、夕方になれば自宅に帰り、夜はほっとできる。夜は自分らしく楽しく過ごせる。夜に気持ちをリセットできる。
「夜は来る」という考えが、心に余白を生む。
そう捉える人が増えたら、日本の暮らしにも余裕が生まれて、もっと素敵な未来が広がるんじゃないだろうか。

いちフロリストが偉そうなこと言ってすみません。

お花は暮らしの必需品ではないけれど、「大切な人と大切な場所で豊かに過ごせるお手伝い」をする手段が、僕にとってはお花しかない。


日々、夕焼けの時刻にそっと願う。
今日も一日お疲れさまでした。
そして明日も、人々の暮らしに花で彩りを添えられますように。

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