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「感覚で生きてる」を免罪符にしたかった

「あいつは感覚で生きてるタイプだから」

いつから、人間は「感覚人間」と「論理人間」の2種類に分けられるようになったのだろうか。

血液型もそうだけど、人間をそんなにはっきりと分けるなんて無茶だ。片手で数えられる程度のタイプしかないならば、もっとお互い理解し合って平和な世の中になっているはずだから。

そんな愚痴はさておき、誰もが、感覚人間で論理人間だ。

ただ、感覚人間が論理人間の要素を多く取り入れることはできても、論理人間が感覚人間の要素を取り入れていくことは難しいのではないだろうか。

ちなみに、僕自身はというと、どちらかと言えば「論理人間」だ。

僕のことを知る人間からしたら、「いやいやいや」とツッコミが入りそうだけれど、僕は自分のことを「論理人間」だと思っている。

「感覚」に頼りたい時に、感覚に頼り切れないと感じてしまうからだ。

「ここはもう感覚でいくしかない」
「論理の域では判断できない」

そんな局面でも、論理にすがりたくなってしまうことが多い。

「感覚人間」と呼ばれる人がただただ羨ましい。

感覚人間には感覚人間の葛藤や悩みがあるのだろう。

自分が感覚で理解していることを他者に伝える難しさ、うまく言葉にできないもどかしさ、きっとそういう感覚人間ならではの何かがあるのだろう。

論理人間だからこそ、頼られる機会も少なくない。

何かを言語化したり、体系化したり、それらは論理人間の得意分野だ。

そのうえで、もう一度言いたい。

「感覚人間」と呼ばれる人がただただ羨ましい。

「感覚で生きてるから」

そう思えれば、文章を書いて言語化しようなんてそもそも思わなかったかもしれない。

文章を書いて言語化しなければ、余計にモヤモヤすることもなかったかもしれない。

「感覚で生きてる」を免罪符にして、そう思い込んで、何かを思い切ったり、何かを割り切ってみたりしたかった。

“感覚で生きてる人”からしたら、「免罪符だなんてとんでもない、失礼な」と思うかもしれないけれど、これは感覚人間に対する、僕なりの羨望と称賛を反映させた、最大限の表現だ。


嗚呼、感覚で生きたい。

せめて、「感覚で生きてる」と実感だけでもしたい。


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おがたのよはく
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