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24歳と365日、今思うこと

「明日誕生日じゃん、俺」

コーヒーを淹れながら、思い出したかのようにそう呟く朝が何とも日常的に感じられて、自分にとって誕生日がすっかり非日常ではなくなってしまった感じがして、少し淋しくなった。

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自分が思う以上に、1年間で何かが大きく変わることはない。自分を取り巻く環境も、そして、自分自身も。

23歳と365日目、「今までの人生は、変化に身を任せすぎた」という実感があった。

だから、24歳の1年間は「自分から巻き込み、変化を作りたい」と決意した。

結果的には、思っていたほどの変化を作ることはできなかった。僕の想定や目標の基準が低すぎたのか、理想が高すぎたのかはさておき、1年経って「この1年間で変わったな」と言えるほどの実感がない、その事実だけが明確にある。

かつて自分の人生の主人公が自分でなかった時、とにかく変化に身を委ねていた時、それはそれで楽しく、幸せだった。

ビジネスマンとして、人として、成長できている実感も持てていた。

いわゆる“若い”うちは、それで良かったのかもしれない。

24歳の僕も25歳の僕も、一般的には若い。

ただ、人生の主人公は自分であり、自分から動かないと、自分から発信しないと、周りも自分も何も変わらない、そう明確に実感した時から僕らはきっと若くなくなる。

そう実感できた瞬間に、自分の変化は、自分から動いた総量やその成果に依存するようになる。

動かなければ、ほとんど変化を実感できない。動いても、自分の納得できる成果が出なければ、それもまた変化を実感できない、ということになる。

そして、24歳と365日目、変わっていない自分への焦りと過ぎ去った1年間への後悔を噛み締めている。それらはきっと、バースデーケーキに刺される予定のろうそくよりもずっと多い。

あいにく、晴れやかな気持ちで25歳の日を迎えられそうにない。

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文章を書き始めるとついカッコつけてしまうこと、この1年間変化に身を任せること、変化を作ること、そのいずれもできなかったこと、そんな自分のダサい一面をどこか愛らしく思えるようになったのは、24歳という1年間で得た実感の一つだ。

“自分にあまり期待しない方が良い”

青かった自分が、今まで後ろ指をさして感じていたことは、ほとんど自分に返ってくる。自分が思っている以上に、自分は行動できない人間だし、怠惰な人間だし、配慮に欠けている人間だ。

自分の限界や現在地が分かった、という意味では、24歳の1年間は決して無駄ではなかったのかもしれない。

「変えたい」という意思と、その中でも決して変わらない自分らしさ、きっと、25歳の1年間もこれらが喧嘩してたまに自分が分からなくなって、苛立ちを覚えるのだろう。

そうこうしているうちに、またあっという間に1年。

25歳と365日目、僕は何を思うだろうか。


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おがたのよはく
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