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ただ濁っているだけのような、準透明とも言えるような

「私には継続力があります」

まだスーツに着られていた頃の渾身のアピールポイント。確かに、引退や卒業以外で何かを途中で辞めたことはないし、物事を途中で放棄して人様に迷惑をかけたこともない。

それなのに、当時の僕には「継続力がある」という自分の口から発せられる言葉がどことなく違和感に満ちていて、胡散臭いもののように感じられた。

そういえば、僕はリクルートスーツを購入したこともなければ、学生時代に「自分は何者か」と悩んだこともなかったし、そもそも就活自体をしたことがなかった。

大学のサークルは夏合宿への不参加をきっかけに自然とフェードアウトしてみせたし、奨学金を借りてまでして通わせてもらった大学も途中で辞めたし、大学を中退してまでして入社した会社も辞めた。

どれも決してネガティブな決断ではなかった(と自分では心の底から思っている)けれど、もし自分が就活をしていたら、間違いなく「継続力がある」とアピールしていただろう。どことない違和感を感じながら。

思えば、自分の意思で何かを続けられた経験はそれほど多くなかった。

意思、正確には、「こうしたい」、「こうありたい」という自ら湧き上がる願望のようなもの。

部活も、受験勉強も、仕事も、誰かに強制されたり嫌々やらされているという実感は無かったにしても、どこか「こうでなければならない」という後ろ向きな動機が大半を占めていた。

もちろん、前向きであろうが後ろ向きであろうが、自分の行動を最終的に決定づけているのは、紛れもなく自分の意思なのだけれど、逃げ道を用意しておきたかったのだと思う。うまくいかなかった時、「けど、普通こうだから」、「こうじゃないといけなかったから」と言い訳できてしまうような。

自分の着たい服を着る、自分の推したい人を推す、自分がなりたいと思う自分になろうとする、自分の意思で何かできたならそれはきっと素晴らしいし、あわよくば続けることができたなら、それはもっと素晴らしいし、それを自分の意思で辞めるようなことがあったなら、もっともっと素晴らしい。

自分の意思で選択して続ける、自分の意思で選択して続けている“という実感”を持てて初めて、「私には継続力があります」と自然に言えるのだろうな。


いかなる選択も決断も、最終的には自分自身がしているのにもかかわらず、わざわざそれを実感しなければならないなんて何だか滑稽だ。

自分の人生を生きている実感とか、自分らしさとか、本来実感するまでもないようなことを、僕らは必死に実感しようとしている。

ただ濁っているだけのような、けれど準透明とも言えるような、そんな言葉や自分のあり方に、今日も明日も振り回される。

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おがたのよはく
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