特別への執着を手放す、大人になるということ
「これから先、毎日この道を行き来するのが人生なのか」
ふとそう思った時が“大人になった瞬間”なのだとしたら、僕らはようやく大人になれたのかもしれない。
あの時思っていたほど、死んだ顔したサラリーマンを満員電車で見かけることはなかったし、東京で消耗した大人にも出会わなかったし、パソコン1台で稼いでいる大人だけが憧れの対象でもなかった。
一人でカラオケに行く、好きな人に告白する、大学を辞める、仕事を辞めて転職する、自分なりに一歩踏み出した経験は数多あるけれど、今となって振り返ればいずれも大したことではない。
「自分は普通なのかもしれない」
そう認識してみること、その問いを自分自身にぶつけてみることの方が、よっぽど一歩踏み出している。
「普通か普通でないか」に執着すること自体が、何者かであろうとすること自体が何よりも普通の感覚で、僕らが望んでやまない何者かである状態ならば、そもそもこの手の思考はしないのだ。無思考とは、夢中なのだ。
皮肉なことに、僕らにその感覚は分からない。
自分のやりたいことは何か、このままで良いのか、自分らしさとは一体何なのか、そんなことで簡単に脳内を埋め尽くしているようでは、到底「夢中」には辿り着けない。
だから、「自分は普通なのかもしれない」と疑い、「自分は普通なんじゃないだろうか?」と問うてみる。
そうやって僕らは大人になっていくのだろうし、今まで無意識に遠ざけていた考え方、興味関心の対象になり得なかった人、どこか忌避していた人間関係に対して、少し寛容になれたりする。
自己啓発本を読まない休日だって、スタートアップやベンチャーではないキャリアだって、SNSで何かを発信しない人生だって、十分自分を満たしてくれる。
これは、何者かになれそうな見込みのない僕らのただのこじつけなのだろうけれど、実は、誰もが「普通」という枠の中で、自分の色や輝きを出しているだけなのかもしれない。「普通」の解像度を上げてみると、そこには判別し切れないほどの数多の色があって、少し引いて見てみると、綺麗なグラデーションになっている、きっとそうに違いない。
結局、ああだこうだ言ったり書いたりしてしまう以上、やっぱり僕らは「何者かであること」への思考を止められない
こんなにも役立たずな哲学者としての仮面なんざ、いっそどこかへ捨ててしまいたい。
「無思考とは夢中だ」、どこの馬の骨とも知れない哲学者の言葉が、今日も僕を思考させる。