「あけましておめでとう」も言えなくて、春。
「あけましておめでとう」のたった一言さえ綴ることなく、気づけば桜は早々に散っていて、いつの間にか春の輪郭もぼんやりしてきている。
相変わらず、暖かい日もあれば肌寒い日もあって、春と冬の終わりを行き来しているような日々だけれど、自分自身も例に漏れず、自宅と職場を行き来しているだけの日々。
毎年、桜を見ると、初めてそれを目にしたかのような感覚に陥る。
だからなのか分からないけれど、桜の存在が無条件に嬉しい。
面倒くさいこともそうでないことも、知りたくなかったこともそうでないことも、出会わなければと思ったこともそうでないことも、大小さまざまな経験をして、それなりに小難しく、複雑に解釈もできるようになった今でも、春の足音を聞くだけで簡単に嬉しい気持ちになってしまう。
奇跡のように出会って必然のように別れる、だからこそ、美しく魅了されるものなのだろう、あいにくこれ以上の表現力と言葉を持ち合わせていない。
一生既読がつくことのないトークルーム、自分宛にいたずらに積まれていく言葉を一つひとつ振り返りながら、やっとの思いで文章を書いている。
久しく会っていない友人と再開する時のような、「やっぱり辞めておこうかな」、「でも会いたいしな」という気持ちの応酬にそそのかされて。
相変わらず、書きたい何かがあって書いているわけではない。
決して、「あけましておめでとう」をあなたに伝えたくて書いているわけではない。あなたに伝えたい何かなんて崇高なものはなく、“何かを書きたい”という衝動だけで書いている。
一緒にいたいと願うから一緒にいて、一人でいたいと願うから一人でいる、生きたいと願うから生きている。
本当は願望がいつも先にあるはずなのに、いつの間にか、願望に蓋をしてしまう。蓋をしていることにさえ気づかないまま。
こうでなければならない、こうあるべき、こちらの方が良しとされる、重たい蓋をそっと開けてみる。
自分にとって、「書く」とはそういうひと時だった。
ひどく重みを増してしまった蓋を、こうしてまた開けられて良かった。
桜の存在に、春の訪れに、こうしてまた無条件に喜べる自分でいられて良かった。