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自己紹介など 44番目のnote

44番目て…

本来であれば、noteを始めたときに自己紹介を先ず書いてみる、そういう流れのようです。知らんかった。

改めまして、はじめまして。耀興と申します。

標準語を話しても秒できっちりバレてしまう、大阪生まれの大阪育ちです。

さっと通りすがったかたは、きっと「ようこう」と読まれたと思います。

「ようおこし」と読みます。というか「ようおこし」に当て字をした、というところです。

「ようおこし」は大阪弁で「(←ようおこしくださいました←)よくぞ来てくださいました」という意味合いの言葉です。

英語で言えば「Welcome」ですね。

ウエルカム、腕噛む、どこ噛むねんと返せばもうあなたは立派な大阪人です。誰の何にどう返すのかは聞かないでください。


子どものころ、母がカセットテープにいろんな本を吹き込んでくれて、寝るときはいつもそれを聴いていました。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」なんて何度聴いたか数えきれませんが、あの大作を吹き込んでくれた母には心から感謝しています。

本好きになったきっかけであることはまちがいありません。


高度経済成長期に生まれた者としてごく自然にテレビに見入る子どもでした。

あの頃はなかなかにストーリー性の高い名作が多く、子どもの時間感覚で半年とか1年とか、かなりの時間をかけて物語を追いかけるのはとても楽しみでした。

明日は学校かぁ、とテンションが下がる日曜の夜の「ハウスこども劇場」は毎週楽しみに観ていました。

最近はYouTubeでもNetflixでも、まとめて観れたり倍速で観れたりして、味気ない気がしなくもないですが、観たいものがたくさんある状況で、これはこれで一法ではないかな、と感じています。

ら抜き表現がありますが、大阪口語(なんて言い方するのかな?)ではら抜き表現が普通なので、ご容赦ください。
例)食べれる、出れる、見れる、答えれる など

耀興の言い訳


つい先だって、「楽しみを取り入れた課題解決のコツ(テンプテーション・バンドリング)」という記事を書きましたが、2年ほど前から健康のためにと始めたウォーキングの最中に、Amazonのオーディオブック「Audible」で気に入った書籍を聴きながら1時間、2時間と気の向くままに歩いています。

最近は老眼が進んで、文庫などもってのほか、新書でも辛く、ソフトカバーの単行本で辛うじて、といった状況なので、Amazonの「Kindle」で年配仕様のフォントサイズで読書することが多いのですが、

今のところ老耳(という言葉はないようですね。「ろうみみ」?「おいみみ」?)にはなっていないので、聴くほうは大丈夫やな、ともっぱら聴書(これまたそんな言葉はない?「ちょうしょ」だと取り調べみたいですね。「きくしょ」?)に頼っています。


子どものころは、作文自体は苦手というか、生来のずぼらでめんどくさがりなため、書くのが好きではありませんでした。

作文の通信教育をやっていた(やらされていた)のですが、物語を書けという課題に200字詰め原稿用紙1枚で話を終わらせてしまい、添削の先生にもうちょっと長く書こうね、と朱入れされた記憶があります。

いや、頭の中では壮大な(ほんまか?)ストーリーが展開しているのですが、言語化がめんどうなのでうまく表出させることができなかったんだと思うんですね。そう思いたい。


自発的に書くのが好きになったのは、高校に上がってからですね。

現代国語の先生から「京大に行きたければ年間150冊の本を読みなさい。」と言われ、当時東大を目指していたわたしは「京大がなんぼのもんや。俺は東大に行くんや。それくらいやったるわ。」とよくわからないいきり方をして、高校1年と2年のときは年間150冊、高校3年のときは受験勉強もあり年間50冊と、3年間で計350冊の本を読み、短いものではありましたが読書感想文も提出していました。

結局言われるがままに年間150冊本を読んでしまい、挙げ句の果てに京大に進学することになったので、思うつぼやないか、と思うとともに、こちらの素直じゃない性格を見抜いて後押ししてくださった恩師には今でも心から感謝しています。

本は何を読んでもいい、ということだったので、それこそ多湖輝先生のカッパブックス「頭の体操」(今は文庫サイズで出ているみたいですが、当時は新書サイズでした。まだ本棚に置いてあります。)やらゴマブックスの「ホイホイ記憶術」などの心理学関係の書籍をよく読んでいました。

新書や文庫も数多く手に取りましたが、安部公房の「箱男」、竹内均先生のデカルトの哲学を解説する「哲学的思考のすすめ」など挙げ出したらキリがないくらいの本を読みました。

そうそう、濱野恵一先生の「脳とテレパシー」という新書(河出書房新社)があるのですが、「脳ホログラフィー理論」という、人間の脳は宇宙の一部であり、かつ、宇宙全体を内臓している、という壮大な話が書かれています。

あまりにも衝撃的で、その後の自分の価値観や考え方に強烈な影響を与えたもので、まとめ買いをして、仲良くなってこれと思った人にはよくプレゼントしていました。

最近、量子力学を踏まえた色んな論考をあちこちで目にしますが、それが腑に落ちるのもこの「脳ホログラフィー理論」の考え方が自分の中に取り込まれているからじゃないかな、と考えています。

この辺はいずれまた別で記事を起こしてみたいですね。


前ふりがだいぶ長くなりました。

ほかにも早逝の天才、中島らも(土曜夕方5時放送の「なげやり倶楽部」、あまりにぶっ飛びすぎて3か月で終わってしまった伝説の番組をご存じのかたは一体どれくらいいらっしゃるでしょうか)や、辛口文章の田口ランディ(「人生29歳変動説:あなたの転機はいつでしたか?」は自分にも思い当たる時期があって、なるほどなぁ、と膝を打ったものです)など、惹かれる文章を書かれるかたは数多いましたが、その辺りの話はいずれ別の機会に。

こうやって多読乱読をする中でひときわ気に入って読んでいたのが、遠藤周作先生のエッセイ「狐狸庵」シリーズや、北杜夫先生のエッセイ「どくとるマンボウ」シリーズです。

軽妙洒脱な書きぶりにすっかりとりこになり、すべて読破して、何度も何度も読み返していました。

これが自分でも何か書いてみたい、と思うようになったきっかけです。

休み時間に駄文をしたため、読み返せば顔から火が噴き出しそうな恥ずかしい文章を書き連ね、ニフティサーブの会議室で傲岸不遜な書き込みをし、HTML2.0の時代にウェブページを作って雑文を綴り、ブログが流行りだして乱筆乱文を飛ばしまくっていました。

その後、仕事(というより移動)が多くなり、いつしか物書きの時間もなくなっていましたが、今、noteが熱い(という表現が古臭い)と聞き、なんか書いてみようかな、と改めてあれこれ書き出した次第です。


最近はICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)が目まぐるしく発達し、生成AIの登場で、誰もが気軽に表現することができるようになっています。

話のネタの仕入れはなんなくできるようになったなぁ、としみじみ思います。電話回線やISDNでお茶を飲みながらダウンロードが終わるのを待っていたころが懐かしい。

ストリーミング再生なんて回線の無駄遣いやん、と「寫眞に魂を吸ひ取られる」とおそれおののいた明治の先人のような気持ちでいますが、生来の新しもの好きなので、楽しめるものは活用しないと、と思っています。


これまでと変わらず、その時その時の気の向くままに駄文をつらつらと書き綴っていけたらな、と思います。


どうぞよろしくお願いいたします。


それでは、ごめんやす!



※文中、敬称略にて失礼いたします。
※文中、アフィリエイト広告が入っています。


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耀興
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