『ヒカリ文集』の一人称について
松浦理英子『ヒカリ文集』は同じ劇団に所属していた人物たちが、あるきっかけから劇団の同僚であったヒカリという人物にまつわる思い出をしたためるという構成の小説です。
五人がそれぞれ一人称で文章を書くことになるわけですが、この記事ではその一人称の表記について見ていきたいと思います。
飛方雪実の「私」
一人目の鷹野裕は「私」、以下、飛方雪実「私」、小滝朝奈「あたし」、真岡久代「私」、秋谷優也「私」→「僕」となっているのですが、ここではまず、飛方雪実に注目したい。彼女はライターとして働いているのですが、以前働いていた編集プロダクションで、男性社長から「飛方さんの文章は女性っぽくないね」と言われたことを思い出します。それは〈女性らしい〉とされる文章が好きではないという理由であり、その例として次のように書かれます。
こういった表現が〈女性らしい〉文章だとされるのです。そしてまた、一人称については以下のように考えを述べます。
「あたし」は女性らしさと強く結びついていて、その一人称が「と言った」ではなく「って言った」という言葉を導く出すということになる。選択する一人称が何か(この場合は〈女性らしさ〉)を強調することになり、さらにそれがある一定の文体を要請するという理屈です。その強調を避けるべく、彼女は「私=わたし」という一人称を選択することになります。
小滝朝奈の「あたし」
一方、これに続く小滝朝奈は「あたし」という一人称を採用しているけれど、一方で文体は女性的な文章とは決して言えない、ニュートラルなものとなっています。例えば
という具合に、ここでは飛方雪実が例示したような「って言った」という文体にはなっていないわけです。これはこの文章を書いた小滝朝奈の人物造形と深いかかわりがあると考えられます。彼女は
と劇団にいたころの自分自身を振り返っているのです。
ここではライターとして働く飛方雪実が持つ「わたし」へのこだわりと、読書家ではないと自認し、また「あたし」を使いながら女性らしい文体に縛られるわけではない小滝朝奈という人物の対比が見て取れます。
こうした登場人物の一人称の捉え方、取り扱い方に対する微妙な差によって、それぞれの人物像が描き分けられているといえるのではないでしょうか。さらに、一人称の持つ意味に敏感な飛方雪実が、そこに頓着せず筆を進める小滝朝奈よりも優れているというような描写には決してなっていないという点についても強調されるべきかもしれません。
秋谷優也の「私」と「僕」
次に秋谷優也の一人称について見ていきたいと思います。彼の文章は次のように始まります。
かしこまった形での謝罪から始まるわけですが、ここでは「私」が使われています。しかし、数行後には
という具合に「僕」という一人称に切り替えるのです。そうすると文体も、ですます調ではなく、一方で話の内容は相手に対するフォーマルな謝罪から自分ことを語るプライベートなものへと変化します。
ここでははっきりと一人称が持つ役割が意識されていて、それに沿って使い分けがなされています。「私」は他者に向けたフォーマルな一人称であり、そこには「ですます調」という語尾が導かれる。そして対照的に「僕」は自らのプライベートな内面を描写の対象とするために使われ、そこでは「だ・である調」が使われる。
さらにこの「僕」という一人称については、飛方雪実の書く文章の中で、秋谷優也の口からその理由が語られています。
この「俺」ではなく「僕」を使う態度と、「あたし」ではなく「わたし」を使いたいという考えとの間に飛方雪実は共通点を見つけて「『この人とは話が通じる』と思」う。ここでは男性らしさ、という視点での僕/俺の使い分けの問題が吐露されているのですが、そうしたジェンダーと一人称の関係性への意識に共感を抱いているというわけです。
まとめ
『ヒカリ文集』で描かれる一人称についての問題意識を見てきましたが、何気なく選択されるように見える様々な一人称のそのものに、ジェンダーの意識やフォーマル、プライベートの使い分けという微妙な差異があり、作者の松浦理恵子はそれを可視化させるとともに、それをそれぞれの人物像に組み込んでいるということがいえるのではないでしょうか。
五人がそれぞれヒカリという人物についての印象や思い出を描写するという構成の中で、〈語られる側〉であるヒカリが複数の目を通して多面的に描かれるだけでなく、〈語る側〉の五人それぞれの差異もまた一人称に対する態度の違いによって浮き彫りにしていく。このように『ヒカリ文集』には描写の鋭さときめ細かさを感じさせられる実に豊かな作品であると言えます。
『ヒカリ文集』(松浦 理英子)|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
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