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顔出しをしたら、何も変わらなかった。

去年の末に「顔出し」をした。
僕にとっては大きな決断で、大きな一歩だった。
でも、何も変わらなかった。

顔出し。

現実世界(=リアル)では「飲み会にちょっとだけ"顔を出す"」なんて使ったりする言葉でもあるけれど、ネット社会でいう"顔出し"は「自分の顔写真をアップロードする」という意味で使うことの方が多いと思う。

SNSというものに触れ始めて早10数年の月日が経つが、僕はずっと顔出しをしていなかった。厳密に言えば同じセクシャリティを持つ人と交流するためのTwitterアカウント…所謂ゲイ用アカウントでは自分の顔画像をアイコンにしていたが、それも鍵付きのクローズドでの範囲だったため、今回テーマにする"顔出し"から考えるに、これはノーカウントにさせてもらうとする。

話を僕のSNS遍歴に戻そう。古くは前略プロフィールやデコログ、モバゲーなんかの黒歴史製造ツール(だよね?)を少しずつかじってきて、そんな中でも僕にとってSNSが生活に欠かせないツールになるほど、本格的に利用するようになったのはTwitterがきっかけだった。

今でこそ顔を出して実名で活動している人も珍しくはないけれど、僕が初めてTwitterアカウントを作成した2009年あたりなんかは、世間的にも「ネット上に顔を含む個人情報を晒すことは重大な危険行為だ」との認識が強かったのではないかと記憶しているし、当時通っていた高校では長期休暇に入る前に「ネットに実名や住所を書き込まない!顔写真をアップしない!」みたいな注意書きが記された、休みの手引きのようなプリントを配布していた覚えがある。

実際のところどうだったのかはさておき、当時の僕もそのルールに則って、リアルとは違うネット上での別人格を作ってSNSを嗜んでいた。具体的にはアニメのキャラをアイコンにしたり、自作のイラストをプロフィール画像として使用していたと思う。

そんな僕が、今になって何故ネット上で顔を晒し出したのか?それには様々な理由があって一言では表すことはできないけど、一番は「もっとオープンに発信していきたい」とずっと思っていたからだ。

「オープンに活動していくことで悩んでいる誰かの救いになればいい」

そんな純度100%でピュアな考えも少しはあったかな。

いやいや全然違う、そうじゃない。もちろんそういう熱い想いを抱けることは素晴らしいと思うけど、僕は違った。今ならそうはっきりと言える。僕は100%自分のためにそうしたんだ。

僕はゲイとして、癌サバイバーとして、高卒とか家族と仲が良くないとかそういうことも含め全てを…ありのままの姿を誰かに認めてほしい、同情してほしい、不特定多数の共感を得たい。そんな自己顕示欲に塗れた想いを心の奥底に潜めていた。それが噴火した。抑えられなかった。

今思ってみれば顔を出すことで称賛の声を貰えたといって、それが自分の全てを認めてもらえたことにはならないのだが…その時の僕は「顔出しをする」ことに対して大きなドラマ性を見出していたんだと思う。まさに火山が噴火するように感情が溢れ出るのを止められず、暴走していた状態というわけだ。

そして吹き出した想いは実行となり、昨年2021年末。決して多くの人に響いてるとは言えない発信活動が1年を迎えたタイミングで、顔を晒け出した。

顔を出す前は、胸が張り裂けるほどの緊張が襲って来た。

と、いうわけでもなかった。「もし容姿について叩かれたら嫌だなぁ」とか「僕のことをよく思っていない人が見つけて、わざわざ嫌がらせでもしてきたら嫌だなぁ」とか、顔出しをすることで起きうるネガティブなケースを想像して、やっぱりやめようかなと思うことは少しだけあったけど。不思議と穏やかな心を持って決心することができた。

しかし時代は令和と言えど、進んでいるのはネット社会だけ。実生活でマイノリティをオープンにして、かつ幸せに生活できている人なんて、ほんの一握りだと僕は思っている。「そんなの誰かが作り上げた理想像で、結局はフィクションなんでしょ」と。

だから今回のことは自分だけの問題ではない。他にも話しておくべき人がいた。

僕には同棲しているパートナーがいる。彼は7つ年上の男性で、付き合って3年。一緒に行動することも多い彼には一応伝えておかねばと、顔出しについてパートナーにも相談してみた。辞めてと言われたら秒で引き返すつもりだったけど、「本名出さなければええんちゃう」と意外にも肯定派だった。なんとなく、辞める口実がなくなったようで拍子抜けした。むしろ自分以外の人に知られてしまったことによって後に戻れなくなったじゃないか。くそ。

衝動的で抑えきれなかったとか言いつつ、心のどこかでは彼に「顔を出すなんて危ないからやめときな」と言ってほしかったのかもしれない。我ながら面倒くさいやつだな。

顔出しをした日に味わった、達成感と爽快感のようなものは不思議と今でも覚えている。

大袈裟な表現だけど、顔を隠していた期間に蓄積された、喉に刺さった魚の小骨のような中々取れないどうしようもない負の感情が、じわじわとスルッと抜けていくような気持ちよさだった。

その日、自分比で結構チヤホヤされたのもその一因だったと思う。低迷していた動画の再生数は上昇し、普段コメントを残さないような人からも「頑張ってください」「勇気づけられました」といったメッセージが続々と届いた時、とても嬉しかった。そして、勝手に他人に許されたような気持ちになった。

それでも、そんな承認欲求を満たすような感情だったり、周囲からの反応も長くは続かなかった。当たり前だ。良くも悪くも物事には慣れという現象が存在し、僕が顔を出したことなど呼吸をすることのように当然の事実になっていくものだ。それは自分にとっても、他人にとっても。

僕は他人からよく「落ち着きのある人」「穏やかな人」と言われるけど、自分では逆だと思っている。

表に出さないだけで、他人よりも何倍も面倒臭い感情を持ち合わせていると。ただ、それを隠すのが人よりも少しだけ上手い(というよりは表情が硬い)だけなんだよな。実は隠せてなくて、そんなことないよと思われてたら最悪だけど。

ドラマクイーンという言葉を最近知った。"芝居がかった行動を取る人、過剰に騒ぎ立てる人"という意味があるらしい。たぶん本来の意味で捉えると違うんだけれど、それって自分のことだと思った。

顔を出すというなんて事ない行為に過剰な期待を抱いて、自分が想像した以上のことが起きるんじゃないかと。起きてくれるんじゃないかと。自分自身や自己を取り巻く環境にまでも、劇的な変化をもたらしてくれるんじゃないかと。もたらしてほしかったと。それはもしかしたら、"期待"ではなく"願い"に近かったかもしれない。

意を決して顔を出したけど、今となっては顔を出す前となんら変わりなかった。

そう、「僕がインターネットの波に自分の顔情報を乗せた」という事実以外は。

もちろんそれは、僕の行ってる発信活動の影響力が実生活に及ばない規模ということだったり、悪口を言ったり過剰に反応しない周囲の優しさがあってのおかげとも言えるだろう。(前半に対して"おかげ"という言葉の使い方がおかしいかもしれないが、悪いことが起きていないのだから、それは僕的には正しいのである。)

さて、長々と顔出しについて語ってきたが、そろそろまとめに入るとする。今回、顔を隠して活動していた僕が顔を出してみて、学んだことがいくつかある。

  1. 一度顔を出したら、その前には戻れない

  2. 顔を出した事実はすぐに慣れる

  3. 物事が劇的に変わるわけではない

  4. 何事にも期待をしすぎない方が良い

なんとまぁ普通のことを羅列して偉そうにまとめてんじゃないよ!と誰かに石を投げられそうだが、ドラマクイーンの僕にはそんな当たり前のことが分からなかったのだ。とんだ夢見がちなヒロインである。

「人生、自分がひとつの作品の主人公だと思って生きてみよ」みたいな教訓も一理はあると思う。でもやはり、何事にも期待"しすぎ"は禁物。僕みたいに「挑戦なすべくして変化を得ろう」なんて考えを持って、仕舞いには実現できなかった時にそれを周囲のせいにする様な、かなしい人間になってしまうかもしれないから。

かと言って今回、顔を出すという僕にとっては"大きな一歩を踏み出したこと"を後悔しまくっているわけではない。しまくってるわけではない、ということはやはり、少し後悔の念があるということでもあるのだが。

「顔を出さない方が良かったのかも?」と思うことも少しはあるけれど、出した瞬間に味わった達成感のようなものは自分にとって豊かな感情だったし、僕が理想とする人生のテーマ『オープンに生きる』にも、少しだけ近づけているような気がする。

全ての人に対して必ずしもオープンである必要はないと思うけど、少なくとも僕は、色んなマイノリティ性を悩みとして抱えていた過去の自分を解放するために、長い間クローズドでい続けていたネット上でもっとオープン生きていきたいと思うのだ。

でもやっぱりまだ全面的に顔を出すことに抵抗があるのか、Twitterのアイコンは自作のイラストのまま変えられずにいる。オープンな場(鍵がかかっていないTwitterアカウント)で、呟くたびに自分の顔が表れるのに抵抗があるからだろうか。

まぁ一度出してしまったものは仕方ない。どうしようもなくなった時はどこかにいなくなってしまえばいいし、どうせなら暫くは今この環境を楽しんで暮らしていこう。次のステップは、Twitterのアイコンを顔写真に設定することからかな。

今回色々と学んだ上でも、今後も自分の内面にいるドラマクイーンという人格を抑えられないことは多々あるだろう。そしてその度に、過度な期待は禁物!という教訓を思い出して、また痛い思いをして繰り返していく。そんな風に自分の人生というひとつの作品の一頁を、じっくり着実にめくっていこうと思う。

ヨーすけ

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