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ひとを愛するとはなんだったか

私の人生を変えた本のひとつに社会哲学者エーリッヒ・フロムの思想書『愛するということ』がある。かいつまんで要約すると自立した人間同士の愛は習得可能な技術であり能動的であるとしている。愛は与えられる瞬間ではなく、与えている瞬間こそが幸福なのだと。

確かにそうだと思った。誰かを大切に思う瞬間は自分の心も穏やかで、どこか牧歌的な幸福に満ちていると思った。次に人を愛するときは、愛するという覚悟を持って、能動的に愛を与えることで自分の幸福度を上げるのだと決心した。

しかし実際にその機会が訪れてみるとどうだ。

愛するということ。めんどくせーーーーーーい!

愛するってなんだったか。好きってなんだ。好きって努力だったか。愛し始めたら二度とやめてはいけないのか。思えば私はなにかを長期的に自分へ課して達成した試しがない。好奇心と付け焼き刃の知識だけでひょうひょうと生きてきたから、覚悟を持つという訓練を怠ってきたツケがここにきている。

目の前の人間を愛さなきゃいけない対象だと思った瞬間それがタスクになった。仕事になった。面白くなくなった。自分の内側から湧き出てくる「好き」と違う気がした。でも大の大人が「好き」なんかでずっと一緒にいられるわけがないという理屈もわかる。そこには努力や我慢や、諦めが絶対に必要だ。世の"夫婦"を見たまえよ。

思えばあの頃はどうしてあんなにも純粋に人を「好き」だと思ったのだろう。そしていつから「好き」だけじゃ通用しない世界に来てしまったのだろう。いや、世界が変わったというか、むしろただ私の中でモノに熱心になるという感覚が失われてしまっただけな気もする。趣味も含めて何かに真に没頭することをやめてしまった。恋愛も例に漏れずそのひとつだっただけで。

結局そんなスタンスで恋愛をしていては迷惑ばかりをかけまくって、ひとを傷つけることもかなり多かった。本当に申し訳なく思い、次は『愛するということ』をしようと思っていたのだ。思っていたのだが……。

面倒くさすぎる。もしも相手が本当に自分の理想通りのパーフェクトな条件だったらその努力も惜しまないか。いや、かつて恋愛をさせていただいた方々もこの上なく(というか比較するまでもなく全員がそれぞれの形で)素敵なひとだったはずだ。それなのにうまくいかなかったのだから、そもそも私に「長期的に何かを継続する」能力自体が全く備わっていないのではないか。

そもそもどうして私はひとを愛したいのか。本当にひとを愛する必要があるか。

確かに"遺憾ながら"年老いてしまったとき、ひとりの私をわざわざこの世界に受容しようとする動きが起こるとは考えにくい。もし私だったら、私にはとっとと退場してほしいと思う(し実際そうなったらそうしたい)。そのリスクヘッジとしての「結婚」「家庭」の意義は認めよう。社会に必要とされる場所が(たとえそこに愛が存在しなかったとしても)ひとつはあったほうがいいことに間違いはない。

ではそのために私はひとを愛するのか。いつか年老いて醜態を撒き散らす害悪に成り果てたときでも帰る場所を保持するために今目の前のひとを愛さねばならないのか。果たしてそれは幸せなのか。そして相手はそれで幸せなのだろうか。甚だ疑問である。

結局、私は目の前の人間を異性として永久に愛し続けるというのが苦手なんだな。同じ場所に永住したくないとか、いつでも部屋を変えられるよう家具を持たないミニマリストをしているとか、そういう性格にも全てに根管から共通する概念なんだ。未来が確定するのが苦手、ということ。

別にいつ終わるとも知れずただなんとなく楽だからそばにいて、気づいたら死んでいたくらいのスタンスでないと続かない。味噌汁を飲むとか、洗濯物を干すとか、そういうふうなレイヤーと同じ、別にそのために生きているわけではないし辞めてもいいんだけれど、そうしないよりは心地良いからそうしている、という心理状態をかざせる相手でないと無理なんだ。たぶんね。

しかしそうなるには一般に前段階として「恋愛」「恋人」「彼氏」みたいなステージングが存在し、そこには愛するという努力が必要で…….。

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