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芸術をしたい奴ではなく、している奴がアーティストと呼ばれる

とある日曜日。

私たちは新宿のカフェで落ち合うことになっていた。助走をつけるようにじわりと暑さの増す初夏の気候にあてられ、今日は絶対に冷たいお茶を飲もうと喉の形を準備して列車を降りる。友人から事前に面子は揃っている旨、連絡が届いたのでむしろのんびりと歩きながら地図アプリと睨めっこし遅れて店の前に到着。扉を開けると冷房の冷たさに混じってタバコの匂いが漂う、昔ながらの"喫茶店"という雰囲気が頬を撫でる。見るとひとつのテーブルに友人と、初めて会う女性とが談笑をして待っていた。

トレンドという名の強迫観念からくる色彩への迷いに潔く見切りをつけながらも心地よい清涼感のある黒いワンピース(私はファッションに疎いのでそれがワンピースと呼んでいい種類かどうか知らないが、とにかく半袖にスカートが接続された形の洋服)に身を包んだ彼女が「はじめまして。」とコロコロ弾けるような快活さで挨拶をしてくれた。私の友人とは学生時代からの知り合いだそうで、話を深めるうち私と会ってみたら面白いのではないかという興味に至ったそう。それでこのたび私との三者面会が実現したというわけだ。

聞くと彼女は理系の院卒で、現在も工学分野の仕事をしているという。なるほど話し始めてすぐに思慮深く聡明なひとだとわかった。そのうえ私と同じくよく考え事をするタイプのよう。私も常日頃より人間との会話で自分の思考を埋め尽くす大量の言語情報を発散させる機会が足りないと感じているところがあり、また彼女もそれは少なからずそうだったようでひと言ふた言と紡がれていく応酬の中で「私たちは同じところがある」という喜びに浸っていく。いや彼女がそう感じたかはともかく、私は久しぶりに母国へ帰り自分の話す言語が通じたような限りない安堵を覚えたと言って間違いない。

さて私たちは普段まさか"会社の飲み会"なんかでは登場させられない反出生主義の話、お互いの死生観、ミニマリストの生活、おどろどおどろしい映画についての話題でひとしきり盛り上がっていた。あぁ、同じ文化圏の知的生命と意志の疎通ができている!感動のうちにコンタクトを続けると、同じ感性をたくさん持っていると感じつつも、浮き彫りになってきた違いもあるように思えた。

私は幼少期より知的好奇心が強く、全ての物事に対して理由と理論を求めたがった。その性質は今でも健在で、インターネットや書店に入り浸っては人生の本質に掠らない素晴らしきムダ知識を収集しまくっては片方からどんどん垂れ流すように忘れていく(ROM容量が少ない)。

愚かなる人間のあるあるをなぞるように、科学系の新書をペラペラと捲りながら「教養の世界に生きたいな〜」とか「研究職に就けたら楽しかっただろうな〜」とか「今大学に入ったらもっと勉強するのにな〜」とか軽率にも思ったりしてみたこともあったが、まさに目の前にしている理系大学院卒テック系職の人間と話しているとそんな夢想も霧散していく。

彼女は好奇心があるだけではない。アタマの体力が明らかに数段上だ。新しい分野に知見を広げようとするアンテナの指向性の広さ、知りたいと思う答えに辿り着くまで続く集中力、記憶に定着するまで研鑽を続ける忍耐力がある。つまり目の前の人はなぜ"勉強ができ"て私はそうではないのか、それを確かに発見した思いだった。

それまで私は心のどこかで「本気を出せば越えられない知の壁はない」と思い込んでいたが、本気を出せるかどうかすらそもそもの能力の範疇。いやそれよりは、本気を出す機会に恵まれるための努力ができる能力があるかどうかの違い、か。私は久しぶりに好奇心と付け焼き刃の知識では太刀打ちできない、長年の努力とアタマを使う機会に溢れた人生で得る本物の「知見」を持った同年代の人間と対峙した。

そして私は悟った。私なぞ講談社ブルーバックスを読んでおもしれーと思っていればそれでいいんだと。学術的な分野を専門に研究しましてや仕事にしようなどあまりにも軽率であり、圧倒的に動機が足りない。目の前の彼女を研究室時代に突き動かしていた爆発力のある「知の動機」なるものが私には存在しない。私は教養の世界で飯を食う土俵にすら立っていないのだと、実感した。

これはもはや救いでもある。私の人生はこれでよかったのだ。なるべくしてこうなった。アカデミックなレベルでの「知の生産」はそれができる体力を備えた人間に任せておけばいい。

最近、スタジオミュージシャン的に音楽を仕事にしながらもソングライターとしては駆け出しの友人と話す機会があり、これに似たことを感じた。彼は表現者としてのアイデンティティの確立に悩んでいた。自分の確固たるアーティスト性は何か、ひとと違う勝負所はなんなのか。歌が上手いのとソングライターの素質は似て非なるものだ。歌が上手いだけで、ただ漠然と音楽で食いたいという思いがあるだけで、やりたいことがわからないと。

私自身も音楽が好きだった子供の頃は「将来はミュージシャンがいいな〜!」なんて吹かしていたような気がするが、ある時期に悟った。アートの世界に必要な、自己の内側の部分が私には足りない。自分の力では抑えきれず寝ても覚めてもそれが外に漏れ出てしまうほどに熱量をもった自我、自意識、自己。それが私にはない。そしてアーティストと呼ばれる人間は、自己表現がしたいからしているのではなく、それをしているからアーティストなのだと理解した。

「なんか起業したい」が先に来ている学生の事業は面白みがないのだろう。そうではなくて、絶対に実現しないと困るというビジョンおよびコンセプトを発出させるためのビジネス。目的としての「何者か」ではなく手段としての「何者か」。そうでないと、成功しない(しにくい)。どこもかしこも等しくそういう世界だ。

だからそういうコンセプトの伴わない夢にしがみつくことを私はやめた。そうではなくて、真の適性と能力を見極めた上でやりたいことをした方がいい。その稼いだ金を夢だったものに費やし消費して人生を終えればそれで十分だ。私ができる「知の生産」はミニマリスト生活についてつらつら喋るとか、読んだ本に雰囲気の書評をつけてネットの海に垂れ流すとかそういうところにとどまっていればいい。

そんなふうに考えながら談笑しているといつの間にかかなりの時間が経っていた。店を出ると新宿には夜が来て、なお勢い途切れぬ喧騒と人の波。目の回るような街の轟音と色彩に辟易した私は彼女に、人混みは疲れないかと尋ねた。「結構好きなんです、お祭りみたいで」と語る彼女の足取りは軽く、人生を自らの意思で摘み取っていく力強さを感じた。あぁ、体力があるんだな、とほのかに笑ってそのあとをついていく。世の中にはいろんな人がいる。その中でこの人が私と今日話をしてくれたことが嬉しいと思った。

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