見出し画像

私の本質 「坐禅」

友人が鬱病を発症した。彼はいつも飄々として生意気で、我が道をゆくというような雰囲気だったから意外だなと思った。しかし鬱は「やまい」だ。本人の意思とか心持ちでどうにかなることはなく、来てしまったら来てしまうということなんだろう。

仕事をひと段落させある程度落ち着いて、そろそろ再起を図ろうという頃の友人からメッセージが届いた。「近所の寺で坐禅体験をやっていて興味があるんだけど、いかないか」と。どうやら古今東西の精神ケアを試したいらしく、その一環とのことだった。私は元来の宗教学的興味もあり彼の誘いに乗ることにした。

とある春の夕暮れ、彼の家の近くにある寺の前に集合する。彼は今日もいつものように「よっす」みたいな軽々しさでひょこひょこと登場した。「暑がりなんだ」と現代日本には珍しい作務衣姿にクロックス。こんなふうに恥ずかしげもなく自己を発現できるタイプの人間も鬱になるんだ、と思い、一方で私は神経質極まるも鬱病にかからずただ怠惰で根暗な人間だという冷徹な事実を不思議だと思った。「いこうぜ」と彼が促す。

千葉のとある臨済宗系の寺。敷地にあるいくつかの建物のうち、坐禅体験はこちらと書かれた立て札のある堂にあがる。内装は思いの外現代的で想像していた寺院的なものとは程遠い。照明は落とされ薄暗いがよく掃除されていて清潔な、和式の小会館というイメージだ。

案内係と思われる方(一般人ふう)に名前と連絡先を帳簿に記すよう言われる。ここに住所を書いて勧誘パンフレットでも送りつけてきたら嫌だぞと思ったが、どうやら感染症クラスター発生時のために控えているのだそう。なるほどと思いながら、自宅の住所をアレンジして存在しない町名を書いておく。

いちばんの大部屋に通されると、すでに数人が集まっていた。若いのは我々ふたりのみ。他は40〜50代と思われるサラリーマンっぽいスーツ姿の男性と、ひとり私服の女性も座っている。それぞれは知り合いにも見えず、皆おのおのやってきたようだった。座布団を支給され、難しい胡座みたいな座り方(ストリートファイターIIのダルシムが浮く時のやつ)を教わる。

「坐禅中は、なるべく動かずに目の前の畳の境を見てください。何も考えないのが理想ですが、慣れない方はゆっくり呼吸に合わせて数を数えます。いち、に、さん……。十まで行ったら、もう一度です。」

集中のプロセスで瞑想状態を作り出すらしい。なるほどと思いながら説明を受ける。時間は30分ほどで、開始と終了は太鼓の音が合図。終わったあとは短い経の読み合わせをしてすべての工程が完了だそうだ。

「では、始めます。ここからは一切の音を立てないように。」

てっきりその案内係の方が主導するのかと思ったが、ここで傍から正装をまとった坊主が登場した。そりゃそうか。我々のそばを通り抜け、仏壇のそばへどっしりと腰を下ろす。建物の隅にあった大太鼓を、弟子と思われる若い坊主が振りかぶって叩く。

「ドン!」

想像の5倍ほど鋭く大きかったこの音で一気に緊張が走る。空気が一変し、背筋がシャンと伸びた。ここから30分間、一切の身動きを立ててはならない。さっそく何も考えないように努めるがどこぞの森のプーよろしく「何も考えないことを考えて」しまい難しく、諦めて先ほどの呼吸カウントを実践する。いち、にー、さん……。

時間は過ぎていく。

時間は過ぎていく。

向かいにいたおじさんサラリーマンだろうか、視線は動かせないので誰だかわからないが、ゴソっと動いて衣擦れの音を立てた者がいる。先ほどからの限りない無音の中で聴覚も鋭敏になっているから、その振動は普段と比べ物にならないくらいに増幅されて私の耳元を揺らす。「んんっ」と咳払いの音もした。誰だか知らないがせっかくの坐禅を全うできていないやつがいるな。

時間は過ぎていく。

どこか遠くに救急車の音。窓は開け放たれているから、夜の街を駆ける救護隊のサイレンが風に乗って室内へと漂ってくる。そういえば、かつて誰か友達の家でやった健康ゲーム『Wii Fit』に坐禅のミニゲームがあった。Wiiに接続したバランスボードの上に座り、画面の蝋燭を見つめながらなるべく動かないように身体を固定する内容。途中で「ギィ…ギィ……」と音がしたり蛾が飛んできたりして集中を乱す。あぁ懐かしのWii Fit。ジョギングのゲームで犬を追い抜かして転んだりしていたな。

っていかんいかん、何も考えるな!考えてはいけない。考えては。

どのくらい時間が過ぎたのか、まだ終わらないのだろうか。ってまた考えてるし!だめだ!目の前の畳を見つめるんだ!よし。そして数を数える。いち、に、さん、し、あ、呼吸を忘れていた。呼吸と一緒に。いち、に、さん……。あぁまだ終わらないのか、そろそろ姿勢を変えたくて体がウズウズしてきた。半分握った手のひらの汗にじんわりとした感触がある。右腕の置き位置が悪く、膝の骨に当たっている部分が痛くなってきた。極限までインプットを減らすことで神経が逆に奮い立ち、感覚が研ぎ澄まされているのだろう。先ほどまで存在することを忘れていた空気すら今は肌を撫でていく感触がある。違う違う考えるな!数えろ!畳を見て数えろ!あぁ痛い痛い……。いや考えてはいけない!数えるんだ!いち、に、さん、し、あとどのくらいで終わるんだ?早く終わりにしてほしい。今すぐ身体を動かしたい。縛られているように心地が悪い。助けてほしい。ダメだ耐えろ。何も考えるな、考えなければ終わる。考えなければ終わる。なにもするな。なにもするな。なにもするな。

あ、やばいなんか、クラクラしてきた。目眩?これやばいかも。あ、これあれだ。吐くかもしれない。え、ここで?それはやばいでしょ。じゃトイレに行くか?ってこの状況で誰に場所を聞くんだよ。周りのみんなは静かに座禅してるのに話しかけちゃダメだろ。え、じゃあやばいんじゃない?打つ手なし?その、どうにもならない感がまた自分を気持ち悪くさせるんだけど。これこのまま耐えるしかない?あ、本気で気持ち悪い。全身がなんかすごいかも。ビリビリきてる。あ、倒れるかなこれ。倒れる時の感じがある。あ、ダメかな。ダメかも。

「ドン!ドン!」

太鼓の音が鳴った。つまりちょうどそのときがきっかり30分。決してそれは動いてもいい合図ではなかったのだが、私は足を組んで座ったままぐにゃあとうなだれた姿勢になり、もう背筋を正すことができなくなった。

続いて五分ほどの読経も行われたが、配られた経典を持ち上げる手に力が入らない。一応「読んでいる」ふうに見せないと怒られるかと思いなんとか顔をあげ手元へ見やる。まだ視界はグルグルとかき混ぜられ視点は明滅しているが、微かにある終わったのだという安堵が次第にそれを和らげていく。

「はい、お疲れ様でした。」

坊主は無言のまま厳かに退場し、先ほどの案内係が全員に呼びかける。これで本当に私たちは常世に戻ってきた。座布団を集め、帰りは気をつけてくださいねと優しく声をかけられ、私たちは外に出る。正直まだ倒れそうなくらいフラフラとした足取りだったが、友人は「足がしびれたか!」と笑って隣をケタケタと歩き始める。

あたりはすっかり暗くなっていた。ご飯でも食べに行こうと誘われ、促されるまま歩みを進める。「どうだった?」と聞かれたので、先ほどまでの体験をありのまま話した。熱った身体を夜風にあてながら改めて考えると、私は極度のプレッシャーでパニックを起こし、音を立ててはならない恐怖で呼吸を忘れてしまっていたようだ。壮絶な30分間だった。倒れるかと思ったよ、と心配をかけまいという作り笑顔で付け加えると彼はひとこと。

「キミはまじめなんだな。」

彼はどこまでも気楽だった。少しくらい動いたって怒られやしないのに、真面目にやりすぎてるんだよ。と笑う彼こそが、どうやら坐禅の途中でゴソゴソ動いて咳払いをしたあいつだった。元気じゃねーか。


私の本質:同じところで同じようにじっとしていられない



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?