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日本のシルクロード、津久井

日本のシルクロードシリーズ、これまで、

と、来ました。

今回は、津久井、です。

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橋本まで輪行、橋本から津久井道を西へ。

原宿自治会館に蚕影神社があります。

蚕影神社、左は市神社、2022/9/4撮影
蟇股(かえるまた、と呼ぶようです。初めて知りました。)が桑の葉です。2022/9/4撮影

蚕影様は、元々はこの近くにあった観音堂の中に一緒になって祀られていたそうですが、観音堂の改装をキッカケに別に祀るようになりこの覆屋が建てられたそうです。

ここ原宿村には60件弱の農家があり全ての農家で養蚕をやっていたそうです。念仏講もあって、春と秋に集まりました。

上記津久井道でも書きましたが、ここ原宿には市があり、養蚕関係の品々も売買され、大変な賑わいだったようです。

だからここに養蚕の無事を祈る蚕影神社とその商売の盛んなることを祈る市神社があるわけですね。

先を行きましょう、川尻八幡宮です。1/8に浅川口大山道で訪問していました。

ここの境内社に厳島神社があります。

恐らくこちらの社、金毘羅神社の覆屋の中にありました。

創建は1849年、その前年、上川尻村畑久保で長さ1尺の双頭のヘビが発見されたことがキッカケ。これを捕えミイラにして御神体としたとのこと。

鼠は蚕を食べてしまう。蛇はその鼠を食べてくれるということで、蛇が御使いとなっている弁天様、つまり厳島神社は、養蚕守護の神になっていきました。

そんな信仰がある中で、世にも珍しい双頭の蛇が見つかったとなれば、そりゃあ御神体にするでしょう。

1849年と言えば、その10年後には所謂不平等条約が結ばれ、横浜が開港し、日本のシルクロード = 絹の道を通じて横浜に生糸が送られ、やがて、生糸輸出世界一になっていくという時期ですが、逆にこの頃は横浜が開港してないわけですから、養蚕関係の品々は大消費地江戸に向かっていました。1813年までは、大集積地八王子を経由してましたが、以降は、津久井から津久井道を使って、直、江戸に行っていました。詳しくは下記。

その頃の創建ということになりますね。

先を行きましょう、久保沢観音堂です。

久保沢観音堂

ここにある百体観音は、造立者は殆が個人で、先祖供養のみならず、養蚕守護もその造立目的だったそうです。

また、これも津久井道シリーズで紹介しましたが、ここ久保沢でも市が開かれ、津久井の産物、養蚕関係の品々も取引されていましたから、市神社があります。

久保沢の市神社、2022/9/4撮影

久保沢観音堂の近くに榛名神社もあります。今、若葉台団地がある所に嘗て養蚕守護の榛名神社があり、若葉台団地造成に伴いここに移転したそうです。

榛名神社、中々分かりづらい所に鎮座

榛名神社は雹除けに霊験あらたかで、蚕の餌は桑ですから、桑の生育の為、雹除けを祈願したのです。

先を行きましょう、大正寺です。

ここにある百体地蔵の中の一つは、養蚕守護を祈願し造成されています。

百体地蔵、2022/9/4撮影
ちょっと見づらいのでズームアップしてご確認下さい。右から、"蚕養守護 小倉村中", "蚕養満足 田名村中 原宿講中" と、刻まれています。2022/9/4撮影

小倉村は今小倉橋がある辺りのことで、近くですから、原宿もそうですね、理解出来るんですが、田名とは?!

上記リンクの通り田名も養蚕が盛んでしたが、蚕影神社もありますし直ぐ隣の上溝に市がありますから、ここまで養蚕守護祈願しにくる必要は無いのではないか、と思ったのですが、上溝の市は明治に入ってから開かれたので、それまでは、田名の養蚕関係の品々も、原宿、あるいは久保沢の市で売買されていたんでしょう。

確かに、百体地蔵は1868年の造立とのことでした。

この大正寺の直ぐ西には八坂神社、小池稲荷があります。蚕影神社は、昭和の初めまで、八坂神社参道に建っていたとのことです。

蚕影神社は恐らくこちら

先を行きましょう、

道すがらの、恐らくは、屋根の上に屋根、お蚕さんの建屋です。

津久井道から都井沢中沢線に入り中沢に至り、普門寺です。このお山の山頂には飯縄大権現があります。

飯綱大権現、ここからは富士山が見えました。冒頭の写真です。

特に繭の神として信仰され、1/14の例祭日には繭玉が奉納されていたということです。

高尾山は飯縄大権現で、八王子は桑都として名を馳せていましたから、自然と、高尾山は養蚕守護神となっていきました。

ここからは、東京湾と相模湾の分水嶺 = 武蔵国と相模国の国境を越えた直ぐに高尾山がありますから、その影響でしょう。

そういった意味では、高尾山→梅木平→峰の薬師→中沢と続く古道も養蚕守護神飯縄大権現を導いた絹の道と言えます。

梅木平林道、撮影した私の背中方向が高尾山、この道を行くと峰の薬師。2023/1/8撮影

先を行きましょう、三嶋神社です。ここの境内社に蚕影神社があり、社殿彫刻は蚕の成長過程です。

三嶋神社、残念ながら本殿の彫刻は見れず

その後、津久井湖北岸を、飯縄大権現、三嶋神社がある中沢から三井と行って、

この絶景

名手大橋を渡り又野に入りまして、、、と、思ったら、通行止めでした。

崩落の為、ということでした。
なので戻って三井大橋を渡り、、、

大きく迂回で又野の八幡神社です。ここの境内社に蚕影神社があります。

穴が繭の形です。

先を行きましょう、三ケ木の三箇木神社です。ここにも、蚕影神社があります。

蚕影神社

先を行きましょう、弁天橋で道志川を渡って河岸段丘を上がると寸沢嵐で、ここに蚕影神社があります。

屋根の所に桑の葉

その先に清光寺。神奈川の養蚕信仰、によれば、平成10年時点で、この辺り、寸沢嵐では、二十三夜講がまだあって、養蚕守護神を信仰していたとのことです。

清光寺、山号は浅間山

月待ちの際には、蚕影様の掛け軸を掛け、養蚕の無事を祈ったということですから、先程の蚕影神社とここ清光寺の二十三夜講は、一体だったと考えた方が良いように思います。

境内の二十三夜塔
こちらは蚕影神社の参道入口にある二十三夜塔、右端です。

全国の蚕影神社の総本社に伝わる金色姫伝説、金色姫の本地仏は勢至菩薩、23夜の月は勢至菩薩ですから、二十三夜講が養蚕と結びつきました。

相模原市の二十三夜塔の分布をみると、相甲国境と相模川に挟まれたエリア、相模川と道志川に挟まれたエリアが特に多く、それより東は、津久井道に沿って展開しているように見えます。

甲州、その先の信州も養蚕が盛んで、これは、甲州道中、津久井道に沿ってここ津久井に伝播してきた文化なのだと思わせます。

そう言えばここ津久井には諏訪神社も多い、津久井道が甲州、その先の諏訪への連絡路だからだ、という話を津久井道シリーズで言っていますが、お諏訪様信仰のみならず、二十三夜講も入ってきていたということですね。興味深いです。

来た道を三ケ木交差点まで戻って相模国が出来たことによって出来た津久井道新ルートを東へ。

中野に至り、中野神社です。ここも諏訪神社。

2022/9/4撮影

相殿に栲幡千々姫命があり、"幡" からも分かる通り、機業、織物の神様です。

冒頭の津久井道にも書きましたが、ここがかの有名な川和縞の産地で、原宿、久保沢に続き1700年代には市が開かれ、たいそう賑やかだったということです。養蚕というより絹織物で有名だったから、蚕影神社ではなく栲幡千々姫命なんですね。

ということで、ここ中野には嘗て、東屋撚糸店や旧蚕業取締所がありましたが、上記津久井道バリエーションルートで訪れた時は時既に遅しで、両方共、無くなっていましたが、ナント!!!昔々、2015/7にこの地を訪れた時に撮った写真に偶然、旧蚕業取締所が写っているのを発見しました!

左奥の茶色い屋根が旧蚕業取締所

先を行きましょう、山越えで根小屋に向かいまして、雲居寺です。

雲居寺

この寺では、嘗て、4/24に施餓鬼会を開いており、この時に、農耕馬による草競馬が行われていて、ここで売られていた竹ざるは、養蚕関係者にご利益有りと、喜ばれたということです。4/24というのはちょうど春蚕の時期だったから、ということでしょうか。

また、蚕霊塔もあって、昭和9年4月、津久井郡の殺蛹乾繭者による建立です。昭和の時代まで続いていたんですね、このエリアでは、養蚕が。

蚕霊塔

先を行きましょう、同じく根小屋ですが、尻久保川の谷に下り、尾根に上がり、串川の河岸段丘にある飯綱神社です。ここの飯綱神社は中沢の飯綱神社とは違い、津久井城にある飯綱神社との関りの様ですが、この覆屋の中に蚕影神社があります。

分かりづらいですが、正面扉の両サイドに社があり、そのどちらかが蚕霊神社

この先、小倉橋を経由して橋本に戻り帰宅しました。

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如何でしたでしょうか。

久し振りのサイクリング、しかも天気が良く、新緑の中、アップダウンも適度で、とても気持ち良かったです。

それにしても道すがら、二十三夜塔が多かったですね。

例えば地神塔は町田辺りで非常に多く、地元世田谷では全く見ません。

双体道祖神は小田原とか、相模国に多い印象です。

面白いですね。どうやって、このような濃淡が出るのか。今後のテーマです。

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