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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜八幡(平塚), ふたつ橋(伊勢原), 大山、日向薬師、小野、熊野堂

廻国雑記によれば、道興は、

近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵一回目、下総、上総、安房、相模、下野、常陸、下総、武蔵二回目相模、伊豆、相模、武蔵三回目、甲斐、上野、下野、陸奥

と、東国を巡礼しました。

武蔵国の二回目と三回目、そして、二回目の武蔵国の後の相模国は、既にexploreしています。

今回は三回目の武蔵国入りの前の相模国をexploreしますが、前回、鞠子川(酒匂川), 剣沢(曽我), 山彦山(六本松峠), 蓑笠の森(蓑笠神社)をexploreしましたから、本日はその続きです。

その前に、、、前回割愛してしまったのでここで補足しておきます。

三回目の武蔵国入りの前の相模国の廻国雑記記載順は、

足柄山を越えて相模国入りし、

山彦山(六本松峠), 鞠子川(酒匂川), 八幡(平塚), 剣沢(曽我), 蓑笠の森(蓑笠神社), ふたつ橋(大山), 大山、霊山・日向寺(日向薬師), 小野、熊野堂、半沢、霞の関

ですが、この通りには歩いていないと思います。例えば、まず、足柄山から山彦山へ行くには先に酒匂川を渡る必要かあります。他にも、山彦山から八幡に行って剣沢に戻るなど、この通り歩いたとしたなら、随分と効率が悪いジグザグとした道のりとなってしまいます。

恐らくは以下の道筋でしょう。

足柄山、鞠子川(酒匂川), 剣沢(曽我), 山彦山(六本松峠), 蓑笠の森(蓑笠神社), 八幡(平塚), ふたつ橋(大山), 大山、霊山・日向寺(日向薬師), 小野、熊野堂、半沢、霞の関

前回は、蓑笠神社まで行き、時間切れ、足切れとなってしまいました。

今回はその続きです。

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秦野駅まで輪行、前回のゴール、蓑笠神社に向かいます。

さてここから八幡、平塚八幡宮への道筋ですが、三通り考えられます。

一つは遠藤原の小田原道、もう一つは大住郡と余綾郡の郡境尾根から日宮神社、立石、上吉沢八剱神社、最後は同じく郡境尾根から山入、山田屋敷と、二つ目の尾根のもう一つ北の尾根を行くルートです。

一つ目は信玄、謙信も使い、足柄上郡と大住郡の郡境道でもあって、見晴らしも良く歩き易い道筋です。二つ目はスサノオノミコト天下り道で、日本武尊の伝承もあります。しかし山道です。三つ目は迅速測図で両実線の大道ですが、やはり山道です。

迷いましたが、調べると、一つ目の道筋には、道興の時代に既に鎮座していた熊野神社が二社ありましたから、一つ目を採用したいと思います。道興は武士ではないですから、山道は無いでしょうし。

蓑笠神社の裏を北東に向かう道です。葛川を渡って遠藤原の丘に上がります。ここが意外にきつかったのですがなんとか足つき無しで上り切り、足柄上郡と大住郡の郡境道となります。

ここは標高120m程の平らな土地ですから、この風景です。

遠藤原から富士山の眺望、いつも言いますが、この景色だけは1486年と変わりません。道興も見たはずです。
大山、こちらも道興も見たはず

景色と長閑さを楽しんだ後は、遠藤原の丘から下り、

ここがまた良い雰囲気の切り通しなのです。

小熊の集落に入りますとここに熊野神社があります。

熊野神社、建久年間1190 - 1198, 土屋三郎宗遠が創建

風土記によれば別当は持宝院なのですが、宗派が書いてありません。明治の廃仏毀釈で廃寺とありますから、本山修験の可能性もあるのではないでしょうか。

先を行きます。鷺坂で再び丘に登ります。上吉沢の台地を西から東へ、

上吉沢の台地からの大山

不動川の谷に下り、再び公所の丘に上がると公所神社があります。

公所神社

元熊野神社で、創建詳らかならずも、1304年の古文書に当社の記載ありということです。

公所の丘を下るとそこは相模川大デルタ地帯で、河内川を渡る橋は鎌倉橋。この道は鎌倉道と呼ばれていました。今回土屋から来ましたが、正に、土屋氏が鎌倉に馳せ参じた道筋と思われます。

鎌倉橋

金目川、鈴川、渋田川と渡って、平塚八幡宮です。

平塚八幡宮

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八幡といへる里に神社侍り。法施のついでに、

あづさ弓、八幡をここに、ぬかづきぬ、春は南の、山に待ち見む

色々と謎が多いです。そもそも何故八幡に寄ったのか。蓑笠神社から大山へは大山道が続いているのに。八幡近辺に、熊野神社や本山修験寺院も無かったようです。確かに、仁徳天皇68年AC380創建という古社ではありますが。

歌の中身についても、平塚八幡宮の南には山はありません。あづさ弓は枕詞で、恐らくは、"春" にかかっていると思われます。前回の剣沢でも言いましたが、道興が訪れたのは剣沢の水が氷る冬ですから、春が待ち遠しいということを詠っているように思えます。これだけですね私に分かるのは。

先を行きます、ルートは幾つかありますが、大山道で伊勢原に向かいます。

大山と富士山の父娘共演

伊勢原を通り抜け、子易、大山と上り詰め、

二の鳥居越しの大山
三の鳥居越しの大山

ふたつ橋です。

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ふたつはしといへる所を過ぎ侍るとて、

おぼつかな、流れもわけぬ、川水に、かけ並べたる、ふたつ橋かな

ふたつ橋

今も二つあります。手前の白い欄干と奥のチャリを立てかけている旧道の橋です。勿論当時のものではありませんが偶然にも今もふたつ橋なのです。

さて、道興は、ここから大山に上り、大山寺に宿泊もしています。、

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宿相州大山寺、寒夜無眠。而閑寂之余、和漢両篇口号。 

蓑笠何堪雪後峰、山隈無舎倚孤松
可憐半夜還郷夢、一杵安驚古寺鐘

わが方をしきしのべとも、夢路さへ適ひかねたる雪のさむしろ

寒過ぎて眠れなかったと言っています。准后とは言え、無いものは無いわけで、決して、贅沢ばかりではなかったことが分かります。

大山寺は、伝承によれば、755年、東大寺別当良弁による開創です。明治の廃仏毀釈で、今の位置に移設しました。それまでは今の阿夫利神社下社の位置にありました。

今の大山寺、明治九年に今の場所に移りました。2022秋撮影、同下
今の大山阿夫利神社下社、嘗ての大山寺境内から相模湾の眺望

そして、その後、大山の向こう側、日向薬師の側に下山していますが、流石にそれはクロモリ担いで出来ないので、上粕屋まで戻ってk603上粕屋厚木線から渋田川を遡上し諏訪神社の丘を越えて日向川の谷に下りることにします。

そして、日向薬師です。

道興が訪れた当時のままの参道
日向薬師

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此の山を立ち出でて、霊山といふ寺に到る。本尊は薬師如来にてまします。俳諧歌をよみて、同行の中につかはしける、

釈尊の、すみかと思ふ、霊山に、薬師彿も、あひやどりせり

日向寺といへる山寺に一宿してよめる、

山陰や、雪気の雲に、風さえて、名のみ日なたと、きくも頼まず

道興が訪れた時は、日向山霊山寺でした。明治の廃仏毀釈で、別当だった宝城坊のみが残り、霊山寺を引き継いでいます。日向寺とわざわざ別に言っているのは謎ですが。

日向山霊山寺の縁起によれば、

"行基が諸国を巡って修行をしていたときです。紀州の熊野に詣でる途中、行基は道の傍らに伏す重病人と出会いました。行基は病人を労り、熊野の湯に入れようと背負って温泉へ連れて行きました。すると病人が、「私は、東方上瑠璃世界の薬師です。あなたの修行を試そうとして仮の姿をしていました。あなたの真実はよくわかりました。私の姿を写し、寺を開いて人々を救いなさい」と言い、光を放ちながら天へ消えました。行基は不思議に思い、梅、椿、百旦の葉を空に投げ、この葉の行くところに薬師の尊像を安置しようとして、その跡を追っていきました。すると、葉が日向の山にとどまったので、そこに寺を開くと決めました。たちまち、二人の老翁が現れ、「行基よ。これは釈迦の尊像を造った時の残りの木です。あなたに授けます。私は熊野権現、白髭明神です」と言って去っていきました。行基はその木で高さ五尺の薬師如来を造りました。これが本尊です。"

ということで、熊野神社とは縁があり、日向薬師は日向修験がありましたが、熊野修験とも関わりがあったのではないでしょうか。だから道興も訪れたのだと思います。

白髭神社、日向薬師の守護神、熊野権現も合祀

日向川を下り、

杉並木の古道を進むと、

実蒔原古戦場跡を突き抜けていきます。ここからの大山の眺めが最高です。道興も見たはずです。

振り返って撮影、実蒔原越しの大山。道興が通った翌年にここで扇谷上杉氏と山内上杉氏とで合戦が繰り広げられました。

日向川が玉川に合流して少し行くとそこは小野で、道興も寄っています。

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熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、

色みえて、移ろふときく、古への、言葉の露か、小野の浅ぢふ

熊野堂に行く途中に小野にも寄った、ということですね。小野小町の出身地という伝承が、この頃からあったのですね。

小野小町は衆知の通り、古今和歌集六歌仙に選ばれるほどの著名女流歌人です。勿論道興も知っていたでしょう。因みに、道興憧れの人在原業平も六歌仙の一人です。

寄らずにはいられませんね。

色見えで、移ろふものは、世の中の、人の心の、花にぞありける

この歌はその小野小町の歌です。ご覧の通り、道興の歌は小野小町へのオマージュですね。

小町神社

先を行きます、熊野堂は厚木市旭町にある熊野神社です。その途中、ここにも寄ったのではないかと思います。

厚木市愛甲の熊野神社、参道の脇にあるお不動さんは、、、

風土記によれば、"村の鎮守、木像を置、本地十一面観音、例祭九月朔日、天正十九年社領四石の御朱印を賜ふ。社前に康暦年間の石燈籠あり、圖左の如し。末社。神明、白山、八幡、吾妻鐘樓。享保十七年鑄造の鐘を掛。別當寶蔵院。日光山愛甲寺と號す、本山修驗(小田原玉瀧坊配下)本尊不動、もとは社傍に庵ありて社守を置しが今廢す。

ということで、この熊野神社の傍らには本山修験寺院、宝蔵院がありました。参道の脇のお不動さんは愛甲寺のものなのではないでしょうか。

熊野神社自体、康暦年間1379 - 1381の灯籠があるくらいですから、道興の時代にも既にここに鎮座していた神社でしょう。ということは、道興も訪れた可能性があると思います。

康暦年間1379 - 1381の灯籠

そして、熊野堂です。

厚木市旭町の熊野神社

風土記によれば、"熊野三社例祭九月九日、三井長吏大僧正行尊の勧請なりと云、古は村の惣鎮守なりと傳ふ。末社稲荷(古は本社より三町を隔、相模川の邊にあり、然るに川瀬變遷して社地に迫りしかば元和中爰に移せりと云、)、鍾樓、天明二年再度鑄の鐘を懸。親睦、銀杏圍二丈。別當熊野堂、或は熊野寺と稱す、長授山厚樹院と號す、本山修験京都聖護院末、正年行事職を奉る・・・"

三井長吏大僧正行尊(1135年卒)は二代目の熊野三山検校で、天台座主、歌人でもあり、道興の大先輩です。その人が開いた神社ですから、寄らないわけには行きませんね。

熊野堂自体は明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまいましたが、熊野神社は残っています。熊野堂、熊野寺と言っているのですから場所もここでしょう。

神社北側に残る熊野堂歴代の山伏の墓、藪で近付けず、且つ、後ろ向き

今日はここまで、本厚木から輪行で帰ります。


如何でしたでしょうか。

まず今回は、景色良し、上り良しで、走ってて楽しいコースでした。

道興が見た景色を、500年後も楽しめるコースです。

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