道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜①相模国・半沢(町田市図師) → 武蔵国・霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市) → 宗岡(志木市上宗岡) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
府中通り大山道で、道興がよく登場しました。
高麗郡街道シリーズで訪問した笹井観音堂にも、道興は訪れています。
廻国雑記によれば、道興は、武蔵国には何度か入ってるんですが、ある時の記載順は、
半沢(町田市図師) → 霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市) → 宗岡(志木市上宗岡) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 河越(川越市上寺山) → 大井川(川越市上戸) → 烏頭坂(川越市岸町) → 勝呂(坂戸市石井) → 野寺(新座市野寺) → 野火止(新座市野火止) → 膝折(朝霞市膝折) → 十玉ヶ坊(志木市幸町) → 所沢 → 久米川(東村山市久米川) → 十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 浜崎(朝霞市宮戸)
上記の通りなんですが、これ、記載の順番 = 歩いた道筋、と、解釈するのではなく、十玉ヶ坊を拠点として、そこから放射線状に歩いていると解釈するのが正解のように思います。
具体的には、
①相模国・半沢(町田市図師) → 武蔵国・霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市) → 宗岡(志木市上宗岡) → 十玉ヶ坊(志木市幸町), ※最後の十玉ヶ坊は記載がありませんが、宗岡の直ぐ近くです。宗岡を訪れた後、十玉ヶ坊に宿泊したものと推測します。以下、同様に解釈。
②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
③十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
④十玉ヶ坊(志木市幸町) → 河越(川越市上寺山) → 大井川(川越市上戸) → 烏頭坂(川越市岸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
⑤十玉ヶ坊(志木市幸町) → 勝呂(坂戸市石井) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
⑥十玉ヶ坊(志木市幸町) → 野寺(新座市野寺) → 野火止(新座市野火止) → 膝折(朝霞市膝折) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
⑦十玉ヶ坊(志木市幸町) → 所沢 → 久米川(東村山市久米川) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
⑧十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
⑨十玉ヶ坊(志木市幸町) → 浜崎(朝霞市宮戸) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
はい、ということで今回は、①をexploreしたいと思います。
■◇◆□
と、言いながらも、①相模国・半沢(町田市図師) → 武蔵国・霞ノ関(多摩市関戸) → 恋ヶ窪(国分寺市)は、既述の通り、府中通り大山道で実走しているので割愛し、恋ヶ窪(国分寺市)からスタートします。
黒鐘公園内の、伝鎌倉街道を通っていきます。
道興が恋ヶ窪で詠んだ歌は、
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
でした。
道興が恋ヶ窪に寄った理由は二つあると思われます。一つは歌に表れている、恋ヶ窪の地名伝承です。
畠山重忠は、本拠地比企郡嵐山から鎌倉に通う為、恋ヶ窪を通る鎌倉街道上道を使っていましたが、通う内に、恋ヶ窪宿の遊女、夙妻太夫と深い関係になりました。ある時、畠山重忠は平家討伐の為、西国に向かうことになりましたが、その後、同じく夙妻太夫に思いを寄せていた他の男から、畠山重忠は西国で討ち死にした、と、嘘をつかれ、悲しみのあまり、姿見の池に身を投げたという物語です。
その後、哀れに思った村人は、夙妻太夫を手厚く葬り、一本の松を植えました。その松に夙妻太夫が乗り移ったのか、枝は畠山重忠が向かった西へ西へと伸び、最後は一葉になってしまったと言います。
それを知った西国から帰った畠山重忠は、夙妻太夫供養の為、無量山道成寺を建立し、阿弥陀如来を安置したといいます。
もう一つの理由が、これは、道興東国順礼そのものの理由でもある、熊野神社です。
道興はこの頃(1486 - 1487), 聖護院門跡第二十四世であり、京都で、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山の統轄を担った熊野三山検校であったので、東国の熊野神社を本山派修験配下に組み入れる目的で、東国を順礼したのです。
廻国雑記を見ると、名所に遊覧もしていますが、熊野神社を辿る道筋でもあるのです。
先を行きます。僅かばかり残る住宅街の中の鎌倉街道と、府中街道とを行ったり来たりしながら北上、
東村山の八坂さんから東へ、志木街道、またの名を奥州道、道興の頃はただただ原野だった、従って真っ直ぐな道を、ひたすらに進みます。
漸く、下清戸に入りますと、ここで桜株通りが北から接続してきます。"桜株" とは、源八幡太郎義家奥州征伐の折、手植えの桜との伝承があります。道興の頃、既にこの道があったということですね。
ただひたすらに真っ直ぐな道を先に進みます。やがて志木宿に入り、
栄橋で柳瀬川を渡り、
その後は堤道を行って、宗岡に至ります。宗岡では、道興は、以下の歌を詠んでいます。
むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て
夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿
そもそも何故道興は宗岡を訪れたのでしょうか。
志木市によれば、
"宗岡という地名が文献に姿を現すのは、室町中期の寛正4年(1463)4月に室町幕府が対立していた足利成氏一派を抑えるため、赤塚(現在の東京都板橋区赤塚)に駐在していた鹿王院の雑掌(領有地の管理人)に対して、それまで仙波対馬守分となっていた宗岡郷に入部した長田弥九郎清仲への協力を命じている『鹿王院文書』が初めてです。"
更に、
"・・・清仲なる人物については、詳しいことは分からぬが、現和歌山県熊野の那智大社所蔵文書によると、その祖先は那智大社別当家の祖、那智執行法眼範誉で・・・"
と、ありますから、この長田弥九郎清仲を訪ねたものと思われます。那智大社別当家の子孫と熊野三山検校とで、宗岡での本山派修験の組織化を促進しようということだと思われます。
また、"むね岡の『宿』" については、まず奥州街道の道筋であり、洪水等の時は水量が収まるのを待つ必要もありますから、宿場があってもおかしくはありません。
そして道興は、ホームポジション、大塚の十玉ヶ坊に戻ったのでした。
如何でしたでしょうか。
今回は、1486年に時空を越えたexploreでした。
道筋は完全に府中通り大山道と重なってましたが、、、違う視点でのサイクリングは非常に楽しかったです。
さて次回は、
②十玉ヶ坊(志木市幸町) → 堀兼の井(狭山市堀兼) → 入間川(狭山市入間川) → 佐西観音堂(笹井観音堂、狭山市笹井) → 黒須(入間市春日町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)
を、行きたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?