青梅街道、青梅宿~氷川・日原
先回、成木街道シリーズをお届けしました。
その中で、成木地区で生産される石灰を運ぶ為の道が成木街道で、1828年に吹上峠が開削された後は、現代の成木街道入口交差点の一つ左の丁字路から東の青梅街道が、石灰運搬の重要路として、整備されたという話をしました。
この石灰は主に江戸城築城に使われたんですが、それだけではなく、例えば湯島聖堂など、色々な幕府案件に使われたものの、やはり、徐々に衰退していきます。
しかし、それに入れ替わるように、御嶽山や日原鍾乳洞の大日如来への参拝に使われるようになります。
更に、取り締まりが厳しかった甲州道中小仏関所を避けられるということで、甲州裏街道として発展していきました。
ということで今回は、一部、渡来の道シリーズの再訪となりますが、青梅街道をexploreしたいと思います。
東青梅駅まで輪行、成木街道入口の交差点の一つ西の丁字路を起点とします。
青梅線の踏切を渡って、まずは、乗願寺を訪れます。
そして乗願寺
正安二年1300, この辺りを支配し平将門の子孫を主張する三田氏の三田下総守長綱が建立、永禄六年1563, 三田氏が後北条氏に敗れ滅亡後は衰退、天正十八年1590, 秀吉小田原攻めの際は、北条氏照が籠もる八王子城を前田利家・上杉景勝が焼き打ちした時の兵火で、この寺も炎上してしまったと伝わります。
乗願寺の背後には、守護神として創建された、神明皇大神宮が鎮座しています。
今の社名は勝沼神社、1774年に今の地に遷座とのこと。元の位置はどこだったんでしょうか。
乗願寺、勝沼神社の直ぐ西隣には、宗徳寺とその守護神、西分神社があります。
宗徳寺の山名は妙見山(上記写真参照)、これは、守護神の西分神社から来ています。廃仏毀釈後、西分神社と称し、祭神は天御中主神になりましたが、その前は、妙見社でした。
この辺りは妙見信仰が盛んです。妙見信仰と言えば平将門ですが、三田氏が、平将門の子孫だと称していることと関係があると思われます。
先を行きましょう、住吉神社の前の変形交差点は、東西方向で見るとクランクになっています。はい、ここが青梅宿の東の始まりです。
その先、青梅駅を過ぎると、南からR411が合流しますが、ここを行くのが御嶽山参拝時のルートとなります。ですから、石灰運搬の役目を終えた青梅街道は、東青梅から、まずは、ここまで西進したということになりますね。
先を行きましょう、旧稲葉家住宅が、往時の青梅宿を想像させます。
旧稲葉家住宅があるクランクが、青梅宿の西の端となります。
このクランクの南に、このエリアの平将門伝承の決定打、金剛寺があり、行く予定にしてたんですが、スッカリ忘れて通り過ごしてしまいました。
承平年間931〜937, 将門はここで、馬の鞭としていた梅の枝を地に刺し、「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」、と誓ったという伝承があります。
その後、立派な梅の木になったものの、梅の実は青梅のままだったことから、青梅という地名となった、という伝承も続きます。
将門は、今回のexploreのキーの一つだったのに、痛恨のミスでした。。。
先を行きましょう、この先、神明橋通りが旧道です。新道を横切り、再び旧道に入って、日向和田駅近くで新旧は同じ道となります。
石神前駅付近で再び旧道へ。海禅寺通りを行き、そのまま、海禅寺です。
寛正年中1460 - 65, 益芝永謙という僧がこの地に草庵を作ったのが始まり。この永謙、世田ケ谷に末寺常徳院を開創したということで、ご近所です。ビックリしました。
また、三田氏の菩提寺となり、その為、位牌と墓があります。
先を行きましょう、旧道は、平溝川を渡る為に軍畑駅付近で平溝川の上流へと回ります。
軍畑駅を過ぎて、旧道を選びながら進み、沢井、御嶽、川井、古里、と行き、鳩の巣大橋付近からの旧道には、将門神社、将門山不動尊があります。
青梅の将門伝説のダメ押し、ですね。
ここはスゴイんです。
日本武尊東征の折、論社穴澤天神社を祀り、
延喜年中、その社の南に、鎮守府将軍藤原利仁が八干戈命を祭って多名沢(棚沢)神社を起こし、その後、平将門が嫡男良門が、亡き父をここに祀って、以来棚沢神社は平親王社となり、穴沢天神社は奥の院となったというのです。
いやいや。穴澤天神社は稲城にもあって、調布、その多摩川対岸の稲城との不思議な共通点が多く存在します(冒頭、渡来の道シリーズlink参照)。
先を行きましょう、鳩ノ巣駅、白丸ダムと行って白丸駅の向こう側が旧道で、そのまま、数馬の切り通しに向かいます。
そしてここに至ります。
1703年に開削された数馬の切り通し、これによって、青梅街道が更に西進することになりました。
その先、もえぎの湯がある道が旧道です。昭和8年のレンガ造りの旧氷川トンネルを通って、奥多摩駅ですね。奥氷川神社を訪れます。
さぁ、ここからは日原の大日様を目指し、日原街道を行きます。
日原は、風土記によれば、
"・・・西は秩父郡大皿川村より同郡浦山村の峰に続けり、されどこの間は往来の道も無く山谷を以って限とせり"
とあるように、成木街道シリーズで訪れた上直竹村上分同様、どん詰まりの集落です。
何故、このような所に人が住み始めたのか。本当に謎です。
と、言いながらも、大沢・小菅集落にある薬師堂、伽藍神社に残る鰐口は、それぞれ、1482, 1445年の銘があるようです。
また、この先、日原の集落には、日原丹生神社があります。
明応年中1498 - 1501創建と言われるこの神社、武蔵七党は丹党の祖神、丹生都比売命を祭ります。はい、丹党の一派、原島氏が、丹三郎、小河内、日原、小丹波等、奥多摩の進出したエリアにこの神を祀っているのです。
ということで、風土記では、秩父への道は無いと断言してましたが、原島氏は秩父から来ていますし、室町期の鰐口もあるので、改めて調べてみると、やはり、ここ日原は、秩父との行き来はあったようです。
この道で、秩父の富士講の人達が富士山参詣に向かい、大日堂参詣も盛んでした。浦山村にある浦山大日堂は、日原の大日堂への秩父側の入口として創建されたと言います。
また、生活の道でもありました。仙元峠は、秩父と日原の交易の場でした。
日原は、青梅街道・氷川よりもむしろ、秩父との交流の方が盛んだったのではないでしょうか。
日原から青梅街道・氷川への道も、あったにはあったのだと思います。富士山参詣道ですから。しかし、細々とした、険しい道だったのだと想像します。
江戸期に入り、幕領となって、道が徐々に整備され、日原鍾乳洞の大日堂参詣が盛んになり、数馬の切り通しも開かれると、一気に、日原から青梅街道・氷川への道も発展したのだと思います。
はい、それにしてもこの道は素晴らしい絶景の道でした。
ということで、いよいよ、日原の大日様、一石山神社です。
第四十二代文武天皇の四年庚子687, 四月八日役の行者の草創、第五十一代平城天皇の大同四年809, 八月二十四日弘法大師の中興、第五十五代文徳天皇の御宇天安元年857, 慈覚大師の再興と伝えられます。
一石山大権現と称され 対岸の鍾乳洞が御神体で、役の行者が開いたということからも分かる通り、修験の一大拠点でした。
風土記によれば、
本宮窟、入口は狭く◯て行くこと十間許にして四方広くこの内には池あり。池中に大日の像を安す
とあるので、弘法大師と合わせて、ここから、大日堂と言われたんじゃないでしょうか。
このまま下って帰りました。
如何でしたでしょうか。
まとめますと、
まず、青梅街道は、以下のフェーズシフトがあったようです。
青梅街道成立前
吹上峠開削後の、東側ルート(青梅宿〜新町・箱根ヶ崎)の成立
西側ルート成立一期(御岳山参詣ルート = 青梅宿~万年橋~吉野街道)
西側ルート成立二期(数馬の切通し開削、日原鍾乳洞大日堂参詣ルート = ほぼ今の青梅街道)
しかし、奥多摩駅周辺の、氷川、日原は、その前から、秩父方面からの富士山、大日堂参詣のルートとして、開かれていたわけです。
つまり、青梅宿~氷川、特に数馬の切り通し付近が、道はあるにはあったんですが、難所中の難所で、ほぼ、断絶状態だったということなんでしょう。
実はこの数馬の切り通し開削前の古道が、白丸の石畳の道なんです。