大山道シリーズ番外編、波多野道(曽屋道、十日市場道)
大山道シリーズ、これまで、
と、来ました。
上記リンクの記事で既述のように、相模川と酒匂川の間の東海道から派生する大山道は全て制覇しましたから、次は甲州道中からの派生を、と、思ってますが、猛暑です。午前中で終わらせたい。。。
ということで、大山道シリーズで、相模国風土記を調べていた際、頻繁に登場した道を、番外編としてexploreしたいと思います。短いですから。
番外編の第一回は波多野道、またの名を曽屋道、あるいは十日市場道、です。
まずは各郡に記載の波多野道を調べますと、淘綾郡と大住郡に波多野道の記載がありました。
淘綾郡
小往還五條、一は高麗寺村より北に入り、以下の往來、何れも海道より北に分折せり、山下・高根、二村の堺を通じ、萬田村を經、出繩村に入、西折して、大住郡下吉澤村に達す、行程三十二町半餘、幅八九尺、波多野道と唱ふ、大住郡
一は波多野道なり、淘綾郡出繩・寺坂二村の堺より、本郡下吉澤村に入り、四村を過て、曾屋村に達す、道程二里十二町許、幅九尺、
ご覧の通り、この2つの道は下吉沢村で繋がっています。
ということで、相模国としての公式な波多野道、と、言いますか、イメージ的に一つレベルが上の、と、言いますか、本道、のような感じで、そういった存在がこの波多野道ですね。
ですのでこの道は押さえるとして、もう一つは各村の記述にある波多野道、あるいは曽屋道、あるいは十日市場道を拾って、道にしてみました。
それでは行ってみましょう!!!
第一波多野道
伊勢原まで輪行、南口を出て、矢崎通り大山道を南下、伊勢原中東側の中原豊田通り大山道のバリエーションルートに移り、南下します。
もうここは城所村となります。風土記での街道の記述ですが、
"村内に平塚道、中原道とも唱える幅九尺。十日市場道幅八尺の二條係れり"
とあって、平塚道あるいは中原道は今来た南北の道、十日市場道が、これから行く東西のルートです。
程無く、貴船神社です。
ここ城所は、元、木所、で、貴船神社の背後にある山林を指し、一方、古代、ここは入江でしたから、船を作る好適地で、船作りの集団が住み、その守り神として貴船神社が創建されたと考えられています。ですので創建は応神期まで遡るとさえ言われています。
また、貴船神社の背後の丘頂上には城所城がありました。
城所城は、左大臣藤原冬嗣を祖とする糟屋氏の糟屋盛直が、1017年~1037年頃に、ここ城所の領主となり城所氏を名乗り、築城しました。館跡である浄心寺から見つかった板碑も1350年頃のもの、ということですから、城所氏は300年程続いたことになります。
その後、1494年には、西隣の岡崎城に三浦道寸が入り、城所城はその出城の役割となります。
城所氏館跡の浄心寺も1528年の開山ということですから、この辺りは、古くからずっと集落があって、従って、この波多野道も、成立時期はかなり昔まで遡るものと思われます。
先を行くと南北に走る矢崎通り大山道とぶつかります。ぶつかった先に村道が続いていて、大句村、矢崎村と縫っていますが、この二村、風土記には波多野道、曽屋道、十日市場道の記述はありません。
しかし更にその先の大畑村では、
"往還二條係る一は大山道幅九尺、一は曽屋道幅八尺"
とあって、大山道は南北の伊勢原通り大山道ですから、曽屋道は鈴川沿いの東西の道と言うことになります。
この道と先程までの道を繋げると、矢崎通り大山道にぶつかった地点からその先の村道を行かずに、矢崎通り大山道を南下し鈴川に出て、鈴川沿いに西進、ということになります。
さぁ、そういうことでそのルートで先を行きますと、
岡崎神社があります。ここは、鎌倉殿の13人にも登場した、岡崎義実の居城、岡崎城がありました。
先を行きましょう、大畑村を過ぎ、真田村に入ります。風土記では、
"往還二條、一は伊勢原道幅一丈、もう一は大山道幅一丈"
という記述で、大山道は南北の国府新宿通り大山道ですね。今来てこれから行く東西の道が伊勢原道と思われます。
道の名前は行き先です。同じ道でも西の波多野を目指せば波多野道、東の伊勢原を目指せば伊勢原道となります。波多野は真田村の直ぐ西隣ですから、波多野道という言い方をする必要が無いわけですね。だから伊勢原道と言うんでしょう。
さて、真田村、ここを領していたのは真田与一で、この与一、先の岡崎義実の嫡男です。
ですから今来た道は、1155年の与一誕生から討ち死にした1180年の石橋山の戦いまで、父岡崎義実と子与一が行き来した道でもあったのでしょう。
先を行きましょう、南矢名村です。風土記での記述は、
"往還四條係れりその内大磯道は南境にあり幅九尺、この道の中程より左折する一條を伊勢原道と呼ぶ、小田原道は東南界に係れり、波多野道は東邊にあり"
です。大磯道は南境ですから、広畑小学校入口のY字路や東海大の南を東西に走る道ですね。この道は西に行けば曽屋なんですがここは既に波多野ですから、東の大磯道と言う言い方になります。伊勢原道は、なので、中程より左折、というのは、大磯道を東進した場合の表現で、正しく広畑小学校入口のY字路を左(北東)に行く道です。真田村の記述の伊勢原道とも繋がります。波多野道は東界なので東海大によって消失していますが、東海大第二駐輪場の辺りから東海大敷地内を通り、明治乳業東海大前宅配センター辺りの大磯道に出る道、そこからそのまま南に延びて金目川まで行く道が小田原道だと思われます。
更に南矢名村の南の下大槻村の風土記記述は、
"往還二條係る一は小田原道幅九尺、一は波多野道なり"
で、小田原道は南矢名村の記述の小田原道で、金目川を渡ってそのまま南西に行くと足柄上郡と大住郡の郡境となって井ノ口に至る道と思われます。
となると残る波多野道は金目川を渡らずに金目川北岸を西に行く道と思われます。
ですのでルートは、真田村で言う伊勢原道を西進し、東海大北端の丁字路を左折、その先の二又は左を採って南矢名村東界の波多野道を行き、大磯道を通り過ぎ、
金目川にぶつかったら西進するルートとなります。
程無く、蓬莱橋で、本日の第一波多野道はゴールです。
振り返りますと、第一波多野道は、岡崎義実・真田与一親子が行き来した、だから鎌倉期から開かれていた、大穀倉地帯を行く波多野道でしたね。
岡崎義実は、頼朝の父義朝の時代から頼朝まで、源氏に付き従った忠臣でしたが、政治的には要職には就かなかったようで、その理由はこれなんじゃないでしょうか。経済的には余裕があって、政治的要職に就く必要性が薄かったのだと思います。
第二波多野道
さて、蓬莱橋で折り返します。急坂を上って、
東名を越え、広畑小学校入口のY字路はそのまま直進、先述の大磯道ですね。直ぐ先に、東光寺と東光寺薬師堂があります。
東光寺、薬師、、、やはり、ですね。
いや実は、先程の蓬莱橋の辺りの地図を見ていたら白山神社がありました。風土記によれば、"金山権現を相殿とす" です。だからもしかしたらそうかと思っていたんですが、ここは産鉄の為、蝦夷征討によって捕らえられた東北の俘囚たちが移住させられたエリアなんじゃないでしょうか。
さて東光寺、東光寺薬師堂ですが、縁起によると天平17年(745)に行基が鎮守諏訪明神の神託によって刻んだ薬師如来像を安置した庵とのこと。また、ここにある木造薬師如来立像と木造聖観音菩薩立像は、それぞれ、鎌倉期(1256/3/8)と平安期の作です。
先を行きましょう。東海大の手前、第一波多野道との辻の直ぐ手前に、八声橋がありました。
武常晴が、実朝を討った公暁を捕らえ、実朝の首を取り返し、波多野忠綱の下に持参する際、ここで首を洗ったという伝承があります。
また、頼朝富士巻狩りの帰り、ここを通り、橋を架けさせたという伝承もあります。
さて、東海大を過ぎ、金目親水公園も過ぎると金目川に下り南金目村となります。風土記では、
"大山道幅八尺、波多野道、曽屋道とも唱う幅九尺"
とあって、大山道は南北の金目通り大山道で、波多野道あるいは曽屋道は今来てこれから行く金目川沿いの東西の道です。
その交差点には、坂東三十三観音霊場第七番、金目観音があります。上記link, 国府新宿通り大山道の時に訪問してますがもう一度。
直ぐ先は片岡村で、風土記では、
"往来二條一は伊勢原道幅八尺、一は曽屋道幅二間あり"
で、伊勢原道は南北の伊勢原通り大山道、曽屋道は東西の今来てこれから行く道ですね。
更に直ぐ先には小さな集落、飯島村で、風土記では、
"波多野道係る平塚邊よりの往来なり幅二間"
とあるんですが、東側の、
寺田縄村
曽屋道幅二間、大山道幅七尺の二條係る入野村
伊勢原道幅八尺、曽屋道幅二間の二條係れり長持村
往還二條あり一は伊勢原道幅九尺、一は曽屋道幅一丈二尺
という記述から判断すると、金目川沿いの道が飯島村記述における波多野道でしょう。
やがて道は東雲橋へと至り、直ぐ東は南原村で、風土記では、
"村西より東に通じて中原道幅一丈係れりこの道の内金目川の邊に至り幅一間に狭まりし所鎌倉古街道なりという東照宮駿府より中原御殿へ渡御の時はこの道御通行なりしと言い伝う又南方より入る一條は十日市場道なり村内にて前路に号し又分かれて乾の方に達す"
とありますから、南方から入る金目川(花水川)沿いの、上平塚、平塚へと至る道が十日市場道であることが分かります。
一方で、平塚新宿の風土記記述は、
"脇往還二條あり一は厚木八王子道幅一間、一は大山及び曽屋村邊への道、八幡社大門より入り字比丘尼御林中にて岐路となり右は大山左は曽屋道なり"
ですから、平塚八幡宮から来て、平塚共済病院近くにある道標で、共に北西なんですが、より北(右)に行くのが大山道、もう一方が曽屋道なり、なので、西から東へと行く場合は、東雲橋から善徳寺の前を通り、船地蔵を右折、平塚八幡宮まで南東に行く道が曽屋道ということになります。今回はこちらを行きたいと思います。
本来の渡河地点は南原公園の北辺です。ここを東へ行き、2つ目を南下し、善徳寺の前を通る道へ東折する所に、
第二波多野道はここでゴールとします。
第一波多野道は岡崎義実・真田与一親子の道でしたが、第二波多野道は、矢名薬師、金目観音、平塚八幡宮を結ぶ巡礼の道でしたね。また、第一波多野道同様、鎌倉期から成立していた道でした。頼朝が富士巻狩りの際、通ったなら、秦野からは小田原通り大山道、つまり、平安鎌倉期矢倉沢往還で、篠窪の富士見塚を通ったに違いありません。
第三波多野道
さぁラスト、第三波多野道です。
まずは、黒部宮です。
風土記によれば、春日神社の元宮で、頼朝が馬入川橋供養の為、創建し、政子安産祈願所にもなりました。
しかしここにはもっと面白い伝承があります。それは、別当福生山宝善院の縁起に詳しいです。
縁起によれば、大磯に上陸した高麗若光は、花水川、別名金目川の西側に高来神社を、東側に黒部宮を創建しました。生活をしていく中で、やがて、この高句麗渡来人の集団の中から死者が出て、古墳が築かれました。その上に、宝善院が開かれています。宝善院は、黒部宮と春日神社の別当でした。尚、黒部とは呉部から来ており、呉部とは織物技術職業集団のことです。
そして花水川を渡って高来神社です。
山下には、渡来人伝承地に多い、虎女伝承地があります。
高麗山の北麓を西進したら出縄から下吉沢への丘越えです。
下吉沢から血洗川沿いに上吉沢へ。ここでまた丘を越えて土屋に下ります。
下り立った土屋は、土屋宗遠の領地です。
土屋宗遠の兄弟に桂御前があり、この人が岡崎義実の妻です。また、土屋宗遠には長く子が出来ず、岡崎義実の子を養子として迎えています。土屋義清です。
この土屋宗遠、この辺りに勢力を持つ中村宗平を祖とする中村党の三男です。また、土屋からは目の前の金目川を小田原道で越え、本日第一波多野道で通った波多野道を北上、東進すれば真田村、岡崎郷に至ります。
岡崎義実は中村党と婚姻関係を結ぶことで、あの、広大な穀倉地帯を手に入れたんですね。
この後、道は右手に大山を見ながら進み、曽谷に至ります。
ここが第三波多野道のゴールです。
第三波多野道ですが、今日実走してみて改めて思いましたが、大磯に上陸した高句麗渡来人達が、秦野に移動したルートなのではないでしょうか。
井ノ口の蓑笠神社には、大磯の高句麗渡来人が、武蔵国高麗郡に移住する際、土屋、井ノ口、大井、松田と西へ進む集団もあって、それらは土着し後に金子氏となり、厚木、伊勢原、秦野と進み土着したのが秦氏である、という伝承があります。今回のルートは少し違うように思いますが、秦氏のルートなんじゃないでしょうか。秦野に行くには実に素直なルートだと思います。
如何でしたでしょうか。
波多野道、秦野へ向かう場合は波多野道、波多野から出る場合は、平塚、あるいは大磯道がでした。
それより西だと、波多野道というより、大山道という言い方になるのかもしれません。
それから、平安・鎌倉期からある道でしたね。岡崎義実、真田与一、土屋宗遠、武常晴、波多野忠綱と、頼朝を支えた鎌倉武士が通った道でした。
岡崎・真田、中村・土屋は、別テーマでexploreしたいと思います。
また、高麗若光率いる高句麗渡来人の大磯から秦野への移動ルートでもあったように思います。これも別テーマで行きたいと思います。
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