道興が歩いた道、廻国雑記を辿る、忍の岡、小石川、鳥越
廻国雑記によれば、道興は、
近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵一回目、下総、上総、安房、相模、下野、常陸、下総、武蔵二回目、相模、伊豆、相模、武蔵三回目、甲斐、上野、下野、陸奥
と、東国を巡礼しました。
三回目の武蔵国入りは、先日、時空を超えたexplore済みです。
今回は、二回目の武蔵国入りの、ちょっと変則的ですが、岩槻、浅草の後の、浅草を発ち、新羽に向かう道すがら、道興が楽しんだ名所巡り、忍の岡(上野の山), 小石川、鳥越をexploreします。
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秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に・・・
浅草の後、廻国雑記はこうして再開します。
新羽に向かう道すがら、名所に寄り道しながら行きましょう、と、こういうことです。
廻国雑記の記載順は、忍の岡(上野の山) → 小石川 → 鳥越、ですが、当時は千束池と姥ヶ池がありましたから、先に鳥越に行ったものと思われます。
とりごえの里といへる所に行きくれて、
暮れにけり宿り何処と急ぐ日になれもねに行く鳥越の里
名所として十分でしょう。
先を行きます、上野公園がある、所謂上野の山、忍の岡です。
秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原のありける蔭にやすみて、
霜ののちあらはれにけり。時雨をば忍の岡の松もかひなし
忍の岡は歌枕です。美しい名であることから、鎌倉初期の八雲御抄でとりあげられ、鎌倉初期の歌人慈円の詠歌を、南北朝時代に尊円法親王が編纂した拾玉集には、
我がこひはしのびのをかに秋暮れてほに出でやらぬしののをすすき
と、詠まれ、正元元年1259, 後嵯峨院の院宣によって、藤原為家、基家、家良、行家、光俊が撰した和歌集である続古今和歌集では、俊恵法師の、
なにごとをしのぶのをかのをみなへしおもひしをれてつゆけかるらん
と、詠まれている名所でした。
道興が行かないわけはありませんね。
道興が忍の岡、今の上野の山のどこに行ったのか。松原があった所、ということになりますが今はもうどこだか分かりません。
その頃既に五條天神社は隆盛を極めてましたから、寄ったでしょう。
先を行きましょう、このまま西進し、台地に上がり、中山道を突っ切って、小石川の谷に降り、大河だったそうですから渡しで渡り、西の大地に上がって、小石川に向かいます。
小石川も、何故行ったのか、どこに行ったのか、ハッキリしませんが、あるかなと思われるのがここです。
こゝを過ぎて小石川といへる所にまかりて。
我方を思ひふかめて小石河いつをせにとかこひわたるらん
この寺は、浄土宗ですが、聖冏上人が応永22年1415に、庵を結んだのが始まりです。この聖冏上人は和歌にも精通し古今集序註や麗気記拾遺抄を著しているということですから、道興もその存在を知っていたのではないでしょうか。
如何でしたでしょうか。
本来なら、二回目の武蔵国入りの順番通り、岩槻から浅草へのexploreをする計画だったのですが、今回の鳥越、上野、小石川は勤務先からそう遠くないということもあって、勤務の合間や行き帰りの時間、電車、バスを使って先に済ませてしまった格好です。
次回は岩槻、浅草か、この続きか、さてどうしましょうか。