日本のシルクロード、相模原台地
※冒頭の写真: 嘗ての一面の桑畑越しの丹沢山塊、恐らくこの手前の木二本は当時の名残桑の木
日本のシルクロードシリーズ、これまで、
と、来ました。
今回はここ、
迅速測図(1880~1886)で一面の桑畑、相模原台地で養蚕痕跡をexploreします。
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橋本まで輪行、津久井道を原宿まで。原宿からは浅川口大山道を南へ。
迅速測図の一面の桑畑の西縁の古道、現代の神奈川県道48号線鍛冶谷相模原線を行きます。
程無く、大島の諏訪明神です。やはり、浅川口大山道で訪問してましたが、ここには、本殿の裏に、蚕影神社があったんです。
戻りまして先を行きましょう、法性寺です。
ここには周辺に住む檀家から寄贈された金色姫の像があるとのことです。公開はしてませんが。
先を行きましょう、ここも浅川口大山道で訪問してました、日々神社です。ここの天満宮ですが、元は、稚日女尊が祀られていたそうです。
前回の日本のシルクロードシリーズ村山でも書きましたが、稚日女尊は記紀に、斎服殿で神衣を織る形で登場します。機織りの神様ですね。
更に、このご神木は白蛇が住むとの言い伝えがあります。蛇 = 繭を食う鼠を食う = 養蚕守護神です。
それもそのはず、迅速測図で神社はこの位置ですから。
先を行きましょう、相模川の河岸段丘を下って、
田名に入りまして、田名八幡宮です。ここも、浅川口大山道で訪問してましたが、ここの境内社に、天地社があり、毎年1月に的祭が実施され、祭の後、的を縣けていた鉤を手に出来ると養蚕が良くなるとされていて、若者の争奪戦になったとのことです。
先を行きましょう、田名塩田に向かいます。辻には、
金色姫の本地仏は勢至菩薩で、月齢二十三夜が勢至菩薩ですから、二十三夜は養蚕守護神となりました。
が、この辺りでは、二十三夜は夫婦和合、養蚕は二十六夜でした。
二十六夜は愛染明王で、藍染に通じ、布繋がりで養蚕守護にもなったのかもしれません。
田名塩田に入りまして向得寺です。
養蚕盛んなりし頃、蚕彰さん、と呼ばれる観音菩薩が祀られていて、養蚕豊作祈願が行われていたということです。蚕影さんですから観音菩薩ではなく金色姫でしょうか。
先を行きましょう、無量光寺ですが、ここに、養蚕守護神として崇められた東権現が移設されています。
元はここにありました。
田名に戻りまして、河岸段丘の上の集落を中心に訪ねます。まずはここ、望地弁才天です。
元々、江之島岩屋弁天として江の島の入江にありましたが、廃仏毀釈で処分されそうになり、養蚕が盛んだったこの地に来ることになりました。拝みたかったんですが非公開ですね。
明治40年の大洪水でお堂が流されましたが弁天様だけは奇跡的に助かり、一時的に南光寺に祀られていました。今の場所に鎮座されたのは昭和29年です。
先を行きましょう、蚕影神社です。
ここは金色姫が拝めます。
目の前の田名民家資料館は養蚕農家の移築活用です。
田名はこれで完了です。一面の桑畑の南縁の古道を行き、上溝に向かいましょう。
上溝では明治3年(1870)に生糸の六斎市が開かれ、大いに賑わいました。
勿論、蚕影神社もあります。
次は東縁の古道を行きます。上九沢の梅宗寺です。ここには蚕影神社があります。この辺りの名主、笹野家にあったものをここに移築しました。
その笹野家の長屋門を写真に収めようとしましたが工事車両が駐車されてて諦めました。
今日はこの辺で。橋本まで戻り帰宅です。
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如何でしたでしょうか。
いつかは行かねば、と、思っていました。だって、迅速測図で最大規模です、桑畑が。
桑畑は相模原台地に作られています。ここには水がありませんから住めません。なので、その周囲、相模川や鳩川の近くに人は住み、桑畑に通ってたと思われます。
1894~1915の古地図を見るとその人が住んでたエリアにも桑畑が進出していますね。養蚕がますます盛んになっていった証拠です。
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