甲州道中シリーズ番外編、日本のシルクロード、佐野川
日本のシルクロードシリーズ、下記で一応の終了としていたんですが、
これは是非追加しなければ、というエリアを発見しましたので、一時復活です。
前回、甲州道中の与瀬宿、吉野宿、関野宿、上野原宿、鶴川宿をexploreしましたが、
関野宿に三柱神社がありましたね。以下に再掲します。
-----ここから-----
この三柱神社、明治六年1873に、八坂神社と大牟礼神社を合祀して三柱神社に改称していますが、元は、唐土大明神でした。
唐土大明神です。個人的なテーマでもある、"渡来の道" シリーズにも該当する神社ですね。
由来書が残っていて、その内容は: 孝安天皇の御代bc426 - bc292, 秦の始皇帝の命により、徐福が、長命不死の良薬を求め、日本に渡来したが、その際、始皇帝自らその尊像を徐福に与えた。徐福、その尊像を携え、筑紫に上陸、東へ進むも容易く回ること叶わず、この地に至り、鷹取山の中央の岩石に尊像を納め、この地を去った。村人はその尊像を祀り、その後、唐土大明神と呼ぶようになった、というものでした。
-----ここまで-----
藤野町役場の現場の説明も、
これです。
藤野町役場の説明にもあるように、渡来人と言えば養蚕、機織りですが、この地にはその期待を裏切らない、痕跡が色濃く残っていました。
ということで今回は、甲州道中シリーズ番外編として、且つ、日本のシルクロードシリーズとして、佐野川を、exploreしたいと思います。
さぁまず電子国土地図を見てみましょう。
三国峠から真っ直ぐ南にくらご峠まで続く尾根があります。
三国峠とくらご峠のちょうど中間地点辺り、ですから十字マークが乗っていますが、768m峰があり、頂上付近は等高線が緩やか、つまり平地になっています。
まず、この山を蚕山(読みは、こやま。読みから、古山、神山[こうやま]とも書き表される。)と言います。
その名も蚕の山です、早速。
風土記によれば、
"三国峠に至る中腹にあり、地形頗る平坦、石楯尾神社を祀りて前社と称す"
となっています。地図通りですね。
また、石楯尾神社を祀っているとのこと。ではその石盾尾神社を、やはり風土記で確認してみると、
"蚕山にあり、或いは高座大明神と祭る、或いは軍荼利宮とも書す。これを前社と称す。延喜式に所謂相模国高座郡十三座の内、石楯尾神社これんなりと云う。今は小祠を建つ。社地頗る平坦にして硯草大木無し、神体石楯破壊して今存するもの左に図す下岩の鎮守なり。例祭三月十五日(養蚕の祭り), 九月十二日(五穀成就の祭り), 十一月十九日(火鎮の祭り), 神主軍荼利日向介持ちなり。"
と、なっていますから、蚕の山、に相応しい内容という点で言えば、三月十五日の例祭は養蚕の祭りだということでしょうか。
しかし、石盾尾神社と養蚕がなかなか結び付きません。。。ここを掘り下げてみたいと思います。
風土記によれば、
"・・・御内神石楯尾の神の御相殿とし火迦具命また和加産巣日命をも鎮め御名を増す・・・"
と、ありました。はい、和加産巣日命ですね。
日本書紀の一書二では、軻遇突智(火迦具命、火の神)と埴山姫(土の神)との間に稚産霊(和加産巣日命)が生まれ、その頭上に蚕と桑が、臍の中に五穀が生じたと伝えていますから、養蚕神として崇め奉られている神様です。だからなんですね、3/15に養蚕のお祭りをしていたのは。
これで一つスッキリしました。
その他、養蚕、機織り関連の風土記の記述ですが、
"桑森(或いは津座森と云う), 蚕山の西北十町(109m*10=1,090m)許にあり。文化年時(1804 - 1818)まで、桑樹の老大なるが五六株もありしが今は無しと云う。国史に曰く、雄略天皇十六年(472)秋七月、詔宣桑国縣殖桑と是時に値り当山の住人多強彦、蚕種の取り方を工夫し蚕種を取って貢献す。然るに当国には桑樹少なし故に山東の国多摩の横野の原(八王子横山)に於いて桑の苗をしたて最寄の国々へ植えし。是に由て当山に蚕山桑森等の各所あり。"
というのがありました。その名も桑森です。
ここまで整理しますと、
三国峠の中腹に蚕山があって、石楯尾神社前社が祀られていますが、その合殿に、養蚕神和加産巣日命も祀られていて、例祭は三月十五日であると。また、この蚕山の西北には桑森があって、この地の住人多強彦が、蚕種の取り方を工夫したり、多摩から桑の苗を持ってきて植えたりして、その結果、蚕山や桑森が出来た、と、いうことです。
蚕山に桑森、聖地ですねここは、養蚕、機織りの。
尚、多摩の横の原 = 八王子横山に、桑の苗を取りに行ったということは、まず八王子がこの頃(雄略天皇十六年(472))既に養蚕、機織りの一大拠点であったこと、そして、ここ佐野川と八王子が通じていた、その道筋は間違い無く甲州裏街道であろう、ということは、佐野川・和田峠・恩方・八王子の甲州裏街道は、雄略天皇十六年(472)の頃から使われている古道中の古道、ということにもなりますね。
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上野原駅まで輪行、甲州道中上野原宿本町の交差点から西原に向かうk33の旧道を行き、上野原中入口の丁字路右折するとこの道が甲州裏街道ですが、ここを相模国に向かって東進、
大越峠を越え、
境川の谷に下りれば佐野川の下岩地区です。
K522棡原藤野線を突っ切って街道の面影残る甲州裏街道の続きを行って、
下岩の集落を南に抜けると老人ホームの辺りに下岩の蚕影神社があるとのことなんですが見つけられず、昨夜雨が降ったこともあって、足元も悪く、深追いしませんでした。この後、予定していた蚕山から分祀された蚕影神社も同様に山道を行くので断念。引き返します。
来た道を戻って下岩集落からくらご峠に向かいます。
くらご峠、和田峠、恩方、八王子へと続いていきます。多強彦も八王子へここを通いました。(武相国境の小仏関所、相甲国境の諏訪関、共に通過せずに済みますから裏街道です。)
峠を越えたらこれまたかなりの斜度で下り、あっという間に鎌沢入口のバス停です。
それにしてもくらご峠、かなりの斜度でした。甲州裏街道、容易ではなかったでしょうね。
さぁ、ここからk521を沢井川沿いに遡上し、八坂神社から鎌沢に向かいます。ここにも和田の蚕影神社があるようなんですが、山歩きなのでパスしました。
想定していたよりは斜度が緩く快適な上りで、
鎌沢熊野神社の直下まで来ましたが、ここからが物凄い斜度、押しで熊野神社に到着です。
さぁ、折り返して八幡神社がある付近が、佐野川と沢井川が合流する地点で、ここを、蚕糸川と呼んでいました。
k521を沢井川沿いに下って上河原から再び旧岩村に戻り、石楯尾神社を目指します。
K522を北上、御霊の集落には、御霊神社の境内社に、蚕影神社があります。
御霊神社を跡にして、上岩の集落に入り、浄禅寺を訪れます。
この浄禅寺ですが、浄禅寺そのものの風土記の記述を確認する前に、こちらを見てみましょう。
"御石明神社、浄禅寺持ちにして別当は大通寺なり。石村石楯及び藤木姫を合祀す(縁起の説によればこれを前社の摂社と称す)下岩の鎮守なり。例祭十一月十五日、神体と称するもの即ち大石なり(生石にして長さ六尺余り周囲二丈三尺余り)。これ石上に厨子を安置しその中に一筐あり枯骨二、髪の毛、及び鏡七面を蔵す"
浄禅寺は、これも初登場ですが、御石明神社を持っていた、ということです。親子関係と言いますか、そういった関係です。
ではその初登場の御石明神社とは何か、ということですが、下岩の鎮守とありますね。上にスクロールして、石楯尾神社の風土記の記述を再確認してみて下さい。
"・・・神体石楯破壊して今存するもの左に図す下岩の鎮守なり・・・"
というのがありましたね。
整理しますと、
蚕山に石楯尾神社前社が祀られていて、その御神体は石楯でしたが破壊され、その一部ということでしょうか、今はそれが下岩鎮守御石明神社にあり、その下岩鎮守御石明神社は、浄禅寺の持ちであるということです。
次に浄禅寺そのものの風土記の記述は、
"岩村山と号す、臨済寺、開山大江元静、本尊十一面観音、脇士不動毘沙門、石村石盾位牌一、石村石盾神霊神儀弘仁二年811十一月十五日卒と書す・・・
阿弥陀堂、大同二年807, 石村石盾建立の堂なり。本尊は木立像、脇士観音勢至。以上三尊は大同二年に石村石盾恵美押勝を征討する時祈誓して堂を建てて安置すと云う。その後、五百六十七年を経て、慶安六年、大江元静、旧跡の破壊するを哀れみ修造して一宇をその側に営み岩村山浄禅寺と号す。・・・"
ということで、親子関係にある浄禅寺と下岩鎮守御石明神社の両方に、これも初登場、石村石楯が記されています。
これも風土記で見てみましょう。御石明神社の天正十三年1585の棟札裏書に、
"神武天皇第二皇子、神八井耳命之正統、多臣武諸子武彦(強彦?), 日本武尊東夷御征伐の砌、武尊に供奉仕当国に来たり、武尊還幸之時、蒙東国鎮護之命を以後代々当所に住みその後裔石村石楯連天平宝字八甲辰年奉勅を太政大臣恵美押勝を討依の賞賜多摩郡、都留、鮎川、大住四縣を旧領高座を合わせ惣而為五縣主しと、その子・・・"
と、ありますから、蚕山や桑森を開いた、言わば、ここ佐野川の養蚕、機織りの中興の祖(元祖は徐福), 多強彦の子孫でした。
いやぁ、風土記の読み解きに骨を折りましたが、クリアになりましたね。
ということは、浄禅寺は、御石明神社も、訪れなければならない養蚕、機織りの痕跡ということになりますね。
ここまで総合的に整理しましょう。
〜日本武尊東征の際、同行した神武天皇の子孫、多強彦が此地に留まり、雄略天皇十六年(472)秋七月、桑森、蚕山を開き、この地で、養蚕、機織りを盛んにした。その後裔石村石楯を合祀したのが御石明神社で、これは、蚕山の石楯尾神社前社の摂社である。蚕山の石楯尾神社前社には、養蚕神和加産巣日命を合殿していて、三月十五日が例祭である。〜
浄禅寺の前の道をそのまま進むと上岩の蚕影山神社があるのですがこちらも山道なのでパスし、更に北上すると、今は石楯尾神社と呼ばれていますが、風土記では御石明神社です。御石明神社は、蚕山の石楯尾神社前社の摂社という記述がありましたから、その影響でしょうか。
k521を沢井川沿いに下っていくと、上河原の集落となって、ここにある東照宮には、風土記に、山王蚕神合社とある蚕影神社があります。
上河原の集落を過ぎると沢井村へと入っていきます。更に下ると中里の集落となり、ここに、諏訪神社があって、境内社に蚕影神社があります。
更に少し下ると御嶽神社境内社に蚕影神社があります。
この後、沢井川沿いに下って吉野宿に下り立ち、藤野駅から輪行で帰りました。
如何でしたでしょうか。
風土記の引用が多くて、且つ、その引用も長くて特にスマホだと読みづらくなってしまいました。
最後に記述したボールドで強調したまとめをご覧ください。お分かり頂けると思います。
こんな山奥に、と言っては失礼かもしれませんが、こんなにも歴史、物語があるなんて、そう、思いました。
ここに書いたことの全てが真実か、分かりませんが、少なくともここの住人の皆さんは信じていた、というか受け入れていた、それが連綿と何百年も受け継がれていたのは確かです。
さて、石盾尾神社についてですが、前社、と言っています。本社、ではないんですね。では本社は?!, はい、別の記述があります。
"本宮奥斉、三国峠の頂にあり、小石祠を立てて石楯尾神社奥の院と称す"
"(縁起の略に曰く、当御山に御鎮座御神者神代天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の第四の御子、初の御名者狭野尊またの御名者神日本盤村彦尊、贈御名者神武天皇と称し奉る。また、御に於いて鎮の御名者石楯尾神と拝奉るなり。石楯尾は、石楯齋地の齋を省きたりとも云えり。また曰く石楯齋地は言葉岩村彦にかよう故にしか云うとも云えり。十二代景行天皇庚戌四十年、日本武尊東夷御征伐の砌、神武天皇昔日向の狭野より東を征せし時、用いた天盤楯を持ち来たり賜い東国鎮護の為に今ここへ置き齋て守りと為す。可しと依の此の盾を賀して鎮盾と云う。また、石楯とも書す。即ち郷の縣主等倉を建て納め祭る。またこの倉を賀して高座と云ひり。武尊勅に依って石楯を置き賜う故に当御社を高座石楯尾神社と申し奉るなり。五十一代平城天皇の御宇大同元丙戌年九月十一日御宮御造営有り之六十二代村上天皇の御宇慶和元辛酉年十一月十九日御宮再御造営也。御内神石楯尾の神の御相殿とし火迦具命また和加産巣日命をも鎮め御名を増蚕山幣獄桑森延喜式内石楯尾神社、軍荼利の宮、また軍荼利の宮とも書す、高座大明神と祀る、今の前祠と云うこれなり。大同年中御造営の御宮は、御山の頂上、武州相州甲州境へ置きて奥斉狭野皇社御国御祖神武皇大神と祀る、今の本宮というこれ也。同六月十五日石村石楯室藤木姫を鎮め石大明神と称し前祠の摂社とす・・・)"