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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜十玉ヶ坊周辺

このシリーズ、これまで、

と、来ました。

道興は、②で笹井観音堂から十玉ヶ坊へ戻った後、十玉ヶ坊の直ぐ北にあった柏の城の大石信濃守を訪問しています。

その後、川越や勝呂、野寺・野火止・膝折、所沢・久米川に行ってますが、大石信濃守にはもう一度訪問していて、十玉ヶ坊周辺ですと、浜崎にも訪れています。

ということで今回は、十玉ヶ坊周辺の道興の歩いた道を、一気にexploreしたいと思います。

③十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

⑧十玉ヶ坊(志木市幸町) → 大石信濃守(志木市柏町) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

⑨十玉ヶ坊(志木市幸町) → 浜崎(朝霞市宮戸) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

ですね。

■◇◆□

道興は、笹井観音堂訪問後、十玉ヶ坊に戻った後、大石信濃守を訪問し、以下の歌を詠んでいます。(③)

ある時大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、

一閑乗興屡登楼 遠近江山分幾炎
落雁斗霜風颯々 自沙翠竹斜陽幽

その暫く後、年明けにももう一度訪問しています。(⑧)

野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、

初春霞
かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は

帰雁幽
霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら

浦春月
藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月

夢中恋
さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋

後朝恋
かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる

大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、

散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ

大石信濃守といへる武士の館、とは、現代の志木市立第三小学校付近にあった柏の城のことと思われます。

柏の城空堀跡、2024/11撮影

城主は、武蔵守護代大石信濃守定重です。

鎌倉に住み中央政務を担当した武蔵守護山内上杉顕定の武蔵守護代として、武蔵国に住み、現地での政務を代行した、武蔵守護代大石信濃守定重は、道興が訪れた1486年、1487年は、ここ、柏の城を本城としていました。

武蔵守護代大石信濃守定重の父は憲儀で、1455年の分倍河原合戦で討死しています。道興が二回目に訪れた1487年は三十三回忌ですね。

1487年、漢詩人の万里集九が太田道灌に招かれ江戸城を訪れた際、柏の城の亭の名付けを頼み、万秀斎を授かったと言います。

こういったことからも、定重この時僅か二十歳そこそこですが、風流な気風、文化的素養を持った人物だったようで、だから、道興も、二度も訪問したのだと思います。

この後、道興は、浜崎に行っています。

武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、
武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし

浜崎というのは北朝霞駅、朝霞台駅付近の字ですが、道興も、浜崎という名の割には波が立たない、水辺が無いと歌っています。

確かにそうですが、地形を見ると、浜崎という地名になったのは頷けます。

歴史的農業環境閲覧システムより、左の電子国土地図を見ると浜崎の位置が分かります。右の迅速測図+地形図を見ると、正に、尖っていて、"崎" になってますね。

浜崎という地名であることに違和感が無くなりましたが、何故道興は浜崎に寄ったのでしょうか。

確かに、道興の歌を見ていると、逆流する入間川の歌では、私の年も逆さに進め、と、歌ったり、洒落がきいています。

この洒落の為に寄ったのか。そこまでではないでしょう。私は、浜崎の隣の宮戸にある熊野神社に寄ったのだと思います。

宮戸神社

埼玉の神社によれば、宮戸の熊野神社は創建詳らかならず、ですが、道興が訪れた1487年の37年前、1450年、浄花坊宰相公が、廊之坊へ、宮戸の熊野神社がある新倉郡、そして那賀郡、山田郡、上足立郡などの浄花坊引の那智山武蔵国先逹旦那職一円を、代銭五十貫文にて永代売り渡したという文書が残っていますから、この地で熊野信仰が盛んであったことは確かなようです。


しかし、道興が武蔵守護代大石信濃守定重を柏の城に訪ね、風流に歌を詠んでいた1486, 1487年は、1483年に、享徳の乱、長尾景春の乱が漸く終結し、1487年に長享の乱が始まる直前の出来事でした。

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