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武蔵国風土記を訪ねる、高麗郡街道シリーズ番外編、笹井観音堂の配下修験寺院の痕跡、阪石町分、南、中藤三郷、赤沢、原市場、小岩井、下加治、飯能、矢颪、前ヶ貫

このシリーズ、前回、前々回と、同様なテーマで、三ヶ島、宮寺、今井、岩蔵、直竹、成木、北小曽木、

そして、小谷田、高倉、入間川、奥富、柏原、広瀬、芦苅場、野田をexploreしました。

今回はこのシリーズの最終回、阪石町分、南、中藤三郷、赤沢、原市場、小岩井、下加治、飯能、矢颪、前ヶ貫をexploreします。

数千年もの間、八百万の神で生きてきた日本人の、一神教への大変革の痕跡を見つけに、さぁ、出発です。

■◇◆□

武蔵横手駅まで輪行、秩父往還を秩父方面へ。

今昔マップより、赤点を見て下さい。等高線の間隔が狭く高麗川に迫っています。崖なんですね。明治に入るまで、こういう崖地は道を通せませんでした。左の古地図は明治27 - 大正4年ですから、既に崖地に道が通ってますね。その道が今も続いているのが分かります。さて、江戸期の道は高麗川右岸の両点線の道です。崖地を避けてるんですね。また、橋の位置が変わってます。西武秩父線の影響でしょう。今橋は紫ポイントにありますが、嘗ては緑ポイントにありました。
嘗ての橋があった所。川からの道が残ってますね。
振り返ると馬頭観音が建っていました。道も明瞭ですね。

旧道を先に進み、白子の集落でもやはり、崖地を避け高麗川を渡河していました。

今昔マップより、赤点の崖地を避ける為、緑点で渡河していました。
その緑点です。橋桁が残っています。渡ろうと思えば渡れますが、先が続いていませんね。諦めました。

こちらもそう。

今昔マップより
赤点です。ここを渡り、
緑点です、ここで復帰

今回のテーマからは外れてますが、秩父往還も中々面白いですね。

そしていよいよ、その名も鎌倉橋で高麗川を渡り、鎌倉坂、あるいは鎌倉峠に至ります。

鎌倉橋から鎌倉峠を遠望
掘割の道、荒れてますけど
鎌倉坂、あるいは鎌倉峠、当時のままか

風土記によれば、

"鎌倉峠 高麗郡西の限りにて、絶頂の高所は、当郡(高麗郡)と秩父の郡界なり。峠は東西に通ずる一条の秩父街道にかかれり。険阻の峠にて、上井上村より5、6町ばかり登り、西の方へ下りて秩父郡南村に至る。土人ここを鎌倉坂と呼べり。相伝う往昔鎌倉全盛の日、秩父辺より彼の地への往来は皆ここに由ると、今この峠の北の方に間道あり、ここは土人のみ往返せり。絶頂よりの眺望は遠近高低山々重なりて西北の間はいと佳景の所なり"

先回の岡部氏は勿論、畠山重忠も通ったことでしょう。

諸先輩方の記事を見ると、峠の向こうにはいけないようなので、素直に秩父往還に戻ります。

この先、訪問目的の一つだった、吾野駅前の白髭神社がありますが、撮影済みなのでスルーしました。以下、撮影済みの写真で説明します。

白髭神社、真ん中に鳥居、左に拝殿、右に手水舎、右奥に大石、2024/10撮影

風土記によれば、

"白髪社、・・・村中の鎮守なり・・・別当光明寺其中にあり、社前に高さ一丈五六尺の大石あり、其傍に板碑あり、文保・応永の年月を勒するのみ、長三尺五寸許"

"光明寺本山修験高麗郡篠井村観音堂の配下なり、本尊不動木の立像長さ一尺二寸、恵心の作という"

とありますから、まずこの場所に、嘗て、笹井観音堂配下光明寺が在ったということ、そしてその境内に白髭神社があり、光明寺はその別当だったということですから、笹井観音堂配下修験寺院の痕跡ということになります。手水鉢には、"別當宗春代(光明寺のこと)" とあるようです。

白髭神社自体に目を向けると、風土記にも、"社前に高さ一丈五六尺の大石あり" とありますがこれは、日本武尊東征の折、道に迷い難儀していると、この岩上から一条の光発し一行を導いた、尊はこれ猿田彦の助けなりと、岩上に猿田彦を祀ったのが白髭神社の始まり、という伝承から来ている記述です。御嶽、武甲、三峯だとこれがお犬様ですね。

日本武尊は伝承としても、風土記にあるように、文保・応永年間の板碑があったわけですから、文保1317 - 1319には恐らく創建されていたと見て良いでしょう。その頃から存在し、江戸時代には村社であった白髭神社の別当という位置を、本山修験光明寺が獲得出来たのは何故なのか。それ程の力があったということでしょうか。

さて、笹井観音堂の勢力範囲は、前々回(冒頭のLink)既述の通り、高麗郡と杣保、そして入東郡の一部です。

ここ阪石町分は鎌倉峠を越えてますから、秩父郡なんですが、ギリギリここまでは、勢力範囲だったということですね。尚、秩父郡は越生の本山修験山本坊の配下となります。

さて、鎌倉峠から秩父往還に戻り、南天神橋を渡り林道に入ります。

名も無き峠で天覚山、大高山から続く尾根を越えます。ここからは下り。ここまでキツかったなぁ。

南村の小字、南、飛村を行きますが、風土記にある南峯山明王寺の痕跡は残っていません。調べてもどうにもこうにも出てこないのですが、今回は通らない他の集落(栃屋谷)には痕跡があるのでしょうか。

明治の廃仏毀釈、修験禁止令で徹底的に排除された修験寺院でしたが、その後別当をしていた神社の神職となるケースが少なくないですが、明王寺の場合は聖天社でした。インド伝来の聖天の小像があったということですが、どこに行ってしまったのでしょうか。

先に進み中藤上郷に入りますと、ここに、礒崎神社がありますが、これは明治の廃仏毀釈前までは、本山修験道林寺持ちの薬師堂でした。

現礒崎神社、旧本山修験道林寺持ち薬師堂
銀杏の絨毯と紅葉

風土記によれば、

"薬師堂、慶安二年、薬師堂領三石の御朱印を賜う、薬師は木の立像長さ八寸行基の作なりと云う、本山修験道林寺の持ちなり"

"道林寺、薬光山と号す、本郡篠井村観音堂の配下なり、本尊は不動を安置す"

道林寺の山号が薬光山ですから、恐らく薬師堂と同じ敷地、つまり此処にあったものと思います。

しかしまた何故礒崎神社にしたのでしょうか?, こんな山奥で、縁も所縁も無いように思いますが・・・・・。

でも実は岡部氏の痕跡Exporeの時に、見付けてたんですよね、秩父、飯能でもう一つの礒崎神社を。

我野神社の境内社に礒崎神社がありました。

さて、中藤川に沿って、k350南飯能線を下り、倉掛峠を越えて入間川に至り、

倉掛峠、南北の道で南に向かってますから峠の向こうは眩しいです

少し遡ると星宮神社があります。

星宮神社、2024/10撮影

風土記によれば、

"妙見社、慶安二年二石五斗の御朱印を附せらる、社内に元禄中の棟札あり、その文に康永二癸未十一月三日、畠山駿河守重俊草創、元亀二辛未六月三日、加治修理大輔・岡部小次郎佐久・林民部少輔再興すと見えたり、本山修験妙見寺の持"

"妙見寺、日影山千萬坊と號す、本山修験、郡内篠井村觀音堂の配下なり、本尊は不動を安置せり"

ということで、痕跡ですね。明治の廃仏毀釈で妙見寺は無くなりました。

日影山妙見寺十世盛吉、と彫られた石碑

また、ここには白髭神社が合祀されていますが、

風土記によれば、

"白髭社、同寺(妙見寺)持"

と、これも、妙見社同様、妙見寺持ちでした。

下った唐竹には笹井観音堂配下修験寺院は無く、その先、原市場の白髭神社ですが、風土記によれば、

"白髭社、當村の内二十二軒の鎮守なり、例祭九月十九日、本山修験、本蔵寺の持"

ということで、何度も訪問していましたが、ここも痕跡でした。

原市場白髭神社、2024/8撮影

尚、ここも明治の廃仏毀釈で山伏が神主になっており、ここの神主が、先程の赤沢星宮神社の神主でもあります。時代が変わっても地域への奉仕活動は継続、ということですね。

下って上赤工にも笹井観音堂配下修験寺院は無く、先の下赤工には、福永山正蔵院とその持ちの十王堂がありましたが、痕跡は見つかりませんでした。

その先、小瀬戸は無く、久須美ですが、白鬚神社が怪しいので寄ってみました。

久須美白髭神社

飯能市史資料編によれば、創建詳らかならずも、報告書や明細帳によれば、延文年間1356 - 1360, 当村の天台修験教順坊が勧請と伝わるとのこと。

天台の修験といえば本山派修験で高麗郡を霞としていたのは笹井観音堂ですから、教順坊は、配下だったのではないでしょうか。

この先、小岩井には天神社と山王社が残っていました。

小岩井神社、風土記によれば、"山王社(左奥), 大光院の持ち", "天神社(正面), 持前に同じ", "大光院、梅林山と号す、本山修験郡内笹井観音堂の配下なり、本尊不動を安す", 2024/8撮影

この後、永田、大河原と無く、飯能に至って、松林山善導寺です。

善導寺

風土記には記載がありませんが、サイトによれば、明治の廃仏毀釈前までは、善導寺とその持ちの観音堂があり、廃仏毀釈で観音堂のみが残っていたのですが、2022年、120年間観音堂を守ってきた、山伏だった嶌田家が、善導寺を真言寺院として復興したのです。

先を行きましょう、飯能村から東は前回exploreしてますが、飯能の北、下加治の白子神社も、笹井観音堂配下でした。

白子神社

"白髭社、當村及び青木・中居・小久保等四ヶ村の鎮守なり、例祭九月廿九日瀧泉寺持"

"瀧泉院、加治山と号す、本山修験篠井観音堂の配下なり"

南下します。

嘗ての久下分村には大悲山本明院がありました。その本尊、十一面観世音菩薩坐像は、明治の廃仏毀釈以降、久下分村の隣村、矢颪にある浄心寺の観音堂に移されています。

浄心寺、観音堂

"本明院、大悲山と号す、本山修験郡中笹井村観音堂の配下なり、本尊不動を安す"

またその先の矢颪には嘗て、大源寺がありました。

"大源院、明王山と号す。本山修験郡中篠井村観音堂の配下なり、本尊不動を安す"

が、明治の廃仏毀釈で多岐座波神杜となり、明治41年1908, 征矢神社に合祀されています。

また、本山修験東泉院持ちだった山王社も同様に征矢神社に合祀されています。

"山王社、本山修験東泉院の持ち"

征矢神社

また、征矢神社そのものに目を向けると、社伝によれば、日本武尊東征の折、この地に千束の矢を備えて戦勝祈願を行ったのがその起源ということです。その後、939年の天慶の乱の時、将門追討の任を負った源経基もここを訪れ、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられている歴史ある古社でした。


如何でしたでしょうか。

武蔵国風土記を訪ねる、高麗郡街道シリーズ番外編、笹井観音堂の配下修験寺院の痕跡も、これで終了です。

まぁしかし、702年役小角による開創、永久年間1113 - 1118圓城寺行尊中興、1486年道興が訪れ廻国雑記に記し、役小角開創28坊の一、京都本山派聖護院の直末27ヶ院の一、往時はこの地方50を超える配下修験寺院を持っていた笹井観音堂ですが、明治の所謂廃仏毀釈、修験禁止令で解体を命ぜられ、今その配下一つも残っていません。諸行無常ですね。

時の政府は、時代の要請に応えた、ということなのでしょうが、実際、その後の日本は列強の仲間入りをしたわけですが、因果関係は追求が難しく、因果関係アリだとして、その後の戦争に突き進んだ一因でもあった、と言う人もいるでしょう。何が正解か分かりませんが、中国毛沢東の文化大革命、ヨーロッパの宗教革命など、これが人の世ということでしょうか。

しかしその痕跡は、僅かながら残っていました。山伏を辞め、持っていた神社の神職となって、地域への奉仕を続けた人も多かったようです。建物を壊しても、人と人の絆、その記憶、土地の記憶は消せないということでしょうか。

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