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柏尾通り大山道
大山道
我が世田谷には大山道が通っています(しかも、新旧2つも!!!)。
また、西に行こうと思うと大山道なんですよね。
大山道は鎌倉道であり、古代東海道でもあって、これまでもう何度も、恐らく100回以上、走ってます。
実際、古代東海道としての大山道は、足柄峠の手前まで、走破しています。
そんな大山道を、何を今更、という感じなんですが、改めて調べてみると、大山道は色々とルートがあるようです。
ということで新シリーズ、大山道シリーズを始めたいと思います。
まずは、柏尾通り大山道です。
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柏尾通り大山道の起点は、江戸時代東海道の不動坂です。
江戸時代東海道ということで、道の成立は江戸時代、大山詣でが盛んになった時期、ということでしょうか。
江戸時代東海道から柏尾通り大山道に入って直ぐ、柏尾追分不動尊があります。
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扉が閉まってて見えませんが、ここには、1713年建立のお不動さんがいらっしゃるわけですね。
大山と言えばお不動さんです。大山寺の御本尊がお不動さんだからです。
先を行きます、JR東海道を越え、柏尾川を渡り、阿久和川を富士橋で渡ったら直ぐ右に折れ阿久和川右岸の遊歩道を行きます。
webで柏尾通り大山道を行く記事を見ると、柏尾通り大山道は、本当は神奈川県道401号瀬谷柏尾道路なのだが、交通量が多く不快なので、仕方無くこちらを通る、という趣旨の内容がありますが、迅速測図を見るとむしろ、こちらの遊歩道が柏尾通り大山道だと思います。
ということで堂々と遊歩道を行きます。
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暫く行くと、岡津橋の先に永明寺別院があり、そこに、大山道の道標があります。
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ここ、永明寺は別院で、なので本院もあるわけですが、本院は、あの太田道灌を開基にして、道灌死後の1542年に開創となっています。
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柏尾通り大山道に復帰して、忠魂碑を過ぎた辺、ここにも大山道の道標があります。
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先を行って、国際親善総合病院をぐるっと回って尾根に上がりますが、今通ってきた道は女坂で、ぐるっと回らず西に真っ直ぐ上がっていくのが男坂ということです。男坂の道筋は一部、尾根上の畑の中に残っています。
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先を行きましょう、、、と、ここで大山の眺望が
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鎌倉道との辻には大山道道標があります。
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この鎌倉道は、北へは、三ツ境、野境道路、三保市民の森、新治市民の森、十日市場に至って鎌倉街道中道と上道とを連絡する鎌倉道に接続します。南は深谷通信所を通って俣野で鎌倉街道上道に接続します。
迅速測図を見ると、平坦な河岸段丘を真っ直ぐに進むので、軍馬も通り易かったでしょう、新田義貞軍もここを通ったと言います。マイナー鎌倉街道シリーズで、訪れないといけないですね。
少し寄り道です。この鎌倉道を北へ。程無く畑の中に、横根稲荷神社があります。大山詣りの旅人もここに寄ったそうです。
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また、この神社には、巴御前が木曽に落ちていく際、ここに寄り、化粧にここの井戸水を使ったという伝承があります。
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巴御前自体が本当に存在したのか、という話もありますが、鎌倉道であることの一つの痕跡、と言えると思います。
しかしここは何よりコレ!!!
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先を行きます、長後街道との辻に、蚕御霊地塔があります。これも大山道道標を兼ねています。
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この辺りは養蚕が盛んでした。
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先を行きましょう、たつ道、とも呼ばれる鎌倉道との辻を過ぎ、更にその先、どん突きは鎌倉街道上道です。
ここを北へ。ファルテック先行開発センターの南側の道が柏尾通り大山道のはずです。本来はここで境川を渡ったと思いますが、
今は橋がないので高鎌橋まで迂回します。高鎌橋、とは、高座郡と鎌倉郡の境だからでしょうか。痕跡ですね。
境川右岸のサイクリングロードを先程の地点まで北へ。柏尾通り大山道は再び南へと行き、長後街道と付かず離れずで旧道は進んでいきますが、やがて、滝山街道との辻となります。
その後、小田急江ノ島線を渡って、藤沢市長後市民センターには、この周辺にあったんでしょう、石塔が集められています。その中に、沢山の大山道道標もありました。
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先を行きましょう、引地川を渡って暫くするとここにも道標です。
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暫く行きますと、中原街道との辻となり、やはりそこには大山道道標がありました。
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更に、少し先の目久尻川を渡った直ぐの所にも養蚕守護塔があって、これも道標です。
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その先、富士フイルムビジネスイノベーションの周りにも道標が2基あります。
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そしたらもう相模川は目の前で、戸沢の渡し場跡にもお不動さんの大山道道標があります。
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相模川を渡って少し行くとまたもや道標が続きます。3基。
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その更に少し先で渋田川に沿った道筋となって、下糟屋に入ります。
下糟屋に入ると、青山通り大山道、またの名を矢倉沢往還が北から接続してきます。
そしてここ下糟屋には、太田道灌の首塚があります。直ぐ東にある大慈寺は、主君扇ヶ谷上杉定正が、鎌倉扇ヶ谷にあった扇ヶ谷上杉氏の氏寺建徳寺をここに移し再興したものと言われています。
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また、この直ぐ近くには延喜式式内社高部屋神社もあります。
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創建詳らかならず、ですが、一説には、紀元前655年の創建と言われます。
この神社、面白い伝承があります。汐汲み神事です。
創建から平安時代までは三筒男命(住吉三神)を主祭神としていましたが、その住吉大神が、現在の大磯町照ヶ崎海岸に上陸し、ここに鎮座したという伝承に基いて、海水・浜砂・ホンダワラを採取し、海水は鎮火水に、浜砂はお清めのために参道に撒き、ホンダワラは拝殿と鳥居の注連縄に吊るすという神事です。
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どこかで聞いたことがありますね。
はい、大磯の高来神社の伝承に似ています。
こちらは高麗大明神こと、高麗若光ですが。上陸地点はほぼ同じです。
しかし、こうなると、大磯から伊勢原への道は相当な古道ということになりますね。元々、高麗若光率いる高麗の渡来人達が高麗郡へ758年に移動した道と考えられてるわけですが。
さてこの神社、1483年に扇ヶ谷上杉定正が大般若経を寄進、この地は扇ヶ谷上杉氏の守護所糟屋館であったとも言われています。
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せきど橋で渋田川と別れを告げますが、ここに咳止地藏尊と大山道道標があります。
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それもそのはず、ここは先程合流してここまで重なってきた矢倉沢往還と別れる所です。矢倉沢往還はそのまま道なり、柏尾通り大山道は右折で渋田川支流沿いに進みます。
暫くすると、府中通り・八王子通り・津久井通り大山道との辻、日向薬師への道との辻を通り過ぎると、、、
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東名を潜ってその先に洞昌院があります。
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太田道灌が中興の開基で、1535年寂の道灌の親戚周厳が中興開山の寺です。
ここにも太田道灌の墓があります。こちらは胴塚、大慈寺は首塚でしたね。
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岡津の永明寺、大慈寺、高部屋神社もそうでしたが、柏尾通り大山道沿いの岡津からこの辺りにかけては扇ヶ谷上杉氏の支配地だったことが、色濃く出ていますね。
はい、先を行きましょう、この直ぐ先にまたしても大山道道標。
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そのまた直ぐ先で、田村通り大山道と合流します。
その先、新東名を潜って、式内論社子易明神比比多神社です。
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天平(729〜749)の頃、染谷太郎太夫時忠が子宝を願い勧請したと言います。
子宝、だからでしょう、祭神は木花咲耶姫です。社名も、創建から江戸時代までは、子易大明神でした。
さて、この染谷太郎太夫時忠ですが、関八州の総追補使で、藤原鎌足の玄孫で、大山寺を開いた良弁の父で、鎌倉に住んでいた、というではないですか!!!
大山を開いた良弁がここで登場ですよ。
今日は行きませんが、以前訪れた(冒頭のlinkの2つ目)ことがあるもう一つの比比多神社の論社も近くにあります。
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はい、そうして、激坂の門前町に入っていきます。
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■◇◆□
如何でしたでしょうか。
much better than I expected でした。なんてったって富士山と大山の共演、その眺望を追いかける道筋なんです。
それにしても道標がたくさんありましたね。それだけ、大山参りが流行ったということなんだと思います。
それと、高部屋神社に比比多神社と、式内論社が2つもあります。
今日訪問した子易の比比多神社は木花咲耶姫を祀ってましたが、もう1つの比比多神社(三宮)は大山がご神体です。
高部屋神社も大山と同じ峰の渋田山が元宮で、渋田川の水源がご神体のようです。
この辺りは大山が中心となって信仰をよりどころに発展していったことが想定されますね。