見出し画像

ふじ大山道の甲州道中以降(≒上飛田給口大山道、布田小島分口大山道)

大山道シリーズ、これまで、

と、来ました。

小田原通り大山道で、相模川と酒匂川の間の東海道から発生する大山道は全て、行き尽くしました。

相模川以東東海道ですと、柏尾通り大山道、田村通り大山道、保土ケ谷通り大山道とこれも制覇。

甲州道中から発生する大山道としては、浅川口大山道、府中通り大山道を行きました。

そして今回は、何と中山道!!!の志村から発生するふじ大山道です。

このふじ大山道、大きく2ルートあって、

中山道志村 → 川越街道下練馬 → 石神井 → 柳沢 → 境 → 深大寺 → 調布 → 押立の渡し → 長沼 → 図師で府中通り大山道に接続

のルートと、柳沢までは同じで、以降、

柳沢 → 田無 → 関野 → 小金井 → 中山谷 → 前原 → 府中で府中通り大山道に接続

と、なっています。

前者の方は、押立の渡しで多摩川を渡るので、甲州道中の上飛田給村から発生する大山道とも言えます。

ということで今回は、ふじ大山道の甲州道中以降、仮称上飛田給口大山道、を、行きたいと思います。


甲州道中の国領まで古道を繋ぎ、国領からは甲州道中で上飛田給口まで。

甲州道中から入って直ぐ振り返って撮影、飛田給駅の直ぐ東です。

道なり道なりで、中央道飛田給三丁目交差点を左、押立神社を右、で、押立の渡しです。

稲城大橋から押立の渡しの眺望

グーグルマップではもう少し下流のようなんですが、迅速測図だとこっちなんですよね。

歴史的農業環境閲覧システムより

多摩川を稲城大橋で渡って、、、

ここで本日1st大山、富士山は雲に隠れて

対岸も押立ですから押立の渡しです。

稲城市設置の押立の渡し説明板、左の道は渡船場道で撮影者である私の背後に続きます。

渡船場道を川崎街道に向かって行きますと、葎草橋があってここに大山道の痕跡があります。

葎草橋の碑
大山 十二里、と、あります。この橋から大山までの距離(十二里 = 48km)ですね。大山道の痕跡です。稲城は走り尽くしたと思ってましたがありますね、未だ。

この先、道なりに進むと川崎街道との丁字路になります。そこを右に行きますと、事前調査では見つけられていなかった大山道の痕跡がありました。

集められた石塔群の中に、
石尊大権現 = 大山、これ、道標でしょうか。此の方青沼大明神と石尊大権現、ということでしょう。

いやぁ、嬉しかったです。これが古道Exploreの醍醐味です。

では道標に従い青沼大明神に。

青渭神社、境内に、何か、大山道の痕跡が無いかと探しましたがやはりありませんでした。

この先は鶴川街道を行くんですが、上谷戸通りと分かれるまでは現道と付かず離れずの旧道を行けます。

白山神社と赤坂地蔵、神社、どこ?, とお思いでしょう。門柱の間にある小さい祠です。お地蔵さんの方は、碑文によれば庚申塔としての建立だそう。日本ならでは。仏教と道教のミックスですが気にしない。
普寛神社前、こんな感じの良い雰囲気の古道です。
左の白い柵が無ければもっと良い雰囲気なのに、と、思いますが、ここは三沢川河岸段丘のトラバース道ですから柵の向こうは崖ですので。

と、言う感じで坂浜の交差点に到着しましたが、稲城市によれば、今来た現鶴川街道と、坂浜から南下し、平尾、栗木、広袴、大蔵と行って芝溝街道に出る道筋の両方を、大山道としています。

鶴川街道の方は、このまま道なりに黒川まで行って、黒川からは真光寺に南下する道筋と、布田道を行く道とがありますが、素直に考えれば布田道を行き、小野路で府中通り大山道に合流なのだと思います。

一方の坂浜から南下するルートは、素直に図師へと行く道筋となります。

風土記の坂浜村の記述でも、

村内に二條の往還アリ、その一は江戸道と呼ぶ、村の西黒川村より入りて三十町もの間全て三沢川に揃いて東の方百村へ達す道幅二間程。また、一つは大山道と呼ぶ、八王子宿の方より来たり、村の北連光寺村より入りて村内へかかること一里ばかり、南の方平尾村に達す道幅三間ばかり、或いはこれを八王子道とも云う。

と、鶴川街道の方は江戸道と、坂浜から南下する方は大山道と呼ばれていたことが分かります。

では往路は鶴川街道ルートを行きます。

ただの藪に見えますが、ここは鶴川街道の旧道です。町田いずみ浄苑の手前のつづら折りにあります。
上記の旧道を抜けると馬頭観音があるここに出ます。切通しになってるの分かりますよね。右側の尾根を来てこの切通しに降り立ち、再びチャリの後ろの尾根に乗ります。
当時のままの道が残る布田道、布田道はその名の通り布田に向かう道、起点は小野路です。ですのでこれまで走ってきた道全体が布田道ですね。布田道は甲州道中布田から小野路に行くわけですから当然大山道でもあったわけです。それにしてもこのクオリティ、いつ来ても良いですね。
三社大権現付近では大木の倒木が
鎌倉街道を越えて大犬久保谷戸、いつ来ても癒されます。
そして、関谷の切通しに向けての上り
毎度お馴染み関谷の切通しです。
そして、往路ゴールの小野路です。ついこの前(府中通り大山道)来たばかり

ここから、府中通り大山道を図師まで。前回、府中通り大山道では気付きませんでしたが、日本ろう話学校入口交差点を過ぎた辺りで本日2回目の大山です。

大山、稲城大橋からの大山は当時見えなかったかもしれませんが、こちらの方は見えたでしょう。

鶴見川まで下り切って円福寺から復路スタートです。

とは言っても大山道の痕跡はありません。先の稲城市も、元々は鎌倉道だった道筋が大山道になったという言い方をしています。ということで鎌倉道の痕跡も合わせて見てみたいと思います。

図師からは芝溝街道を東進します。野津田、大蔵、広袴と進み、鎌倉街道早ノ道への上り口に神明神社がありまして、ここに庚申塔道標があります。

神明神社入口と庚申塔道標
右神奈川道
左江戸道

江戸道とは正にこの道、甲州道中に至り、甲州道中から江戸へと向かう道筋です。

神奈川道ですが、ここまで、真光寺川の谷から上がってきたんですが、真光寺川の左岸を行って横浜上麻生道路で神奈川宿へと続く道筋のことです。

そしてこの道は正に鎌倉街道早ノ道低地ルートと言われています。もとは鎌倉道だった道筋が、江戸になり、大山道として使われた、一つの痕跡ですね。

上り切って鎌倉街道早ノ道尾根ルートを峠の辻で越えます。風の谷幼稚園の脇を通り下り、常念寺の南の切通し道も当時の風情を残しています。

常念寺の南の切通し道

栗平駅を越え、その後、また尾根を越えますが、ここには御座松があります。

地元古老の話では、ここは分倍河原に通じる鎌倉道で、元弘3年新田義貞の鎌倉攻めの際、敗れた鎌倉方の兵士を葬った塚で、供養の為、松が植えられ、地元では ”厄除け松” とも呼んだそうです。分倍河原へは、まさにこれから行く道を行き、坂浜、長沼から大丸、是政の渡しで多摩川を渡り分倍河原です。

杉山神社に下って再び天満神社に向けて上りますが、ここの途中に、不動明王があります。

不動明王???

今回、何度も走ったこの道を大山道として改めて走ろうと見直した際、あぁ、だからここにお不動さんがあったのか!!!, と、思ったんですが、久し振りに行ってみると、不動明王の説明版は撤去され、よくよく見ると不動明王ではなく青面金剛、つまり庚申塔でした。

その先、上り切って西を見ればギリ大山が見えました。

大山

天満神社を過ぎて京王線を越え直ぐの所のこの土盛は、鐙塚です。

義貞軍の兵士たちの塚、とも言われています。

坂を下って坂浜の交差点です。ここからは朝来た道です。

帰りは矢野口の渡しで帰りましょう。稲城市によれば矢野口の渡しからの道筋も大山道ということですから。

矢野口の交差点の交番の裏に石橋供養のお地蔵さんがあります。

石橋供養のお地蔵さん

そこの説明板には、

矢野口の渡しから渡船場道でここまで来て、ここから南は大山ということで、その南とは弁天通りで、読売ランド、妙覚寺、威光寺の間を岡越えし、稲城市と川崎市の行政界を西へ行って平尾で復路と合流する道筋も、大山道と言っていますね。

ということで稲城市の3つ目の大山道でした。

矢野口の渡し渡船場道の馬頭観音
矢野口の渡し

如何でしたでしょうか。

冒頭の通り、東海道からの大山道は制覇しましたので、甲州道中からの大山道をと、いうことで、府中通り大山道を行って、八王子通り大山道を行こうかと計画していた所、地図を見ると、八王子通り大山道と府中通り大山道の間が少し空いている、調べてみますと、ふじ大山道があった、ということでした。

もう何度も走った道筋でしたが、まだまだ見落としていた痕跡があるものですね。また、布田道は相変わらずのクオリティで楽しめました。

いいなと思ったら応援しよう!