道興が歩いた道、廻国雑記を辿る、帷子、岩井原、餅井坂、すりこばち坂、離山
道興の廻国雑記、二回目の武蔵国入り、岩槻から始まり、浅草、忍の岡(上野), 小石川、鳥越、芝の浦、あら井(大森), まりこの里(丸子), 駒林、新羽と来て、かたひらの宿(帷子), 岩井原、餅井坂、すりこばち坂、離山を経て鎌倉に入ります。
武相国境越えは、餅井坂からすりこばち坂の間ですね。
忍の岡(上野), 小石川、鳥越、そして芝の浦、あら井(大森), まりこの里(丸子), 駒林、新羽はexploreしました。
今回は、かたひらの宿(帷子), 岩井原、餅井坂、すりこばち坂をexploreします。
□◆◇■
前回のゴール、新羽までファストライドです。
新羽から、鶴見川を亀甲橋で渡って、日産スタジアムを突っ切り、神奈川道にぶつかりますから、神奈川道を神奈川方面に進み、岸根公園で鎌倉街道下道との交差点となりますから、ここからは鎌倉街道下道を鎌倉方面へと行きます。
保土ヶ谷で台地から下り、帷子川を渡る所が、かたひらの宿というのが定説です。
古町、というのは江戸初期の東海道であり、そして鎌倉街道下道でもある道がここを通っていたからです。
赤点が古町橋です。一本実線荷車道が通ってます。今来た道です。遡ると黃点かありますがここが追分です。追分から真っすぐ行く道が1707年の富士山宝永大噴火以降に移設された東海道です。宝永大噴火以前は、追分からグイッと山側に曲げないと帷子川を渡れなかったのです。その後、宝永大噴火で埋め立てが進み、東海道を真っ直ぐに敷設出来るようになったのです。
緑点が頼朝の時代に創建された橘樹神社で、宝永大噴火以降東海道沿いにありますが、元々安楽寺付近にあったものがいつの頃か遷座されたということですから、逆に、宝永大噴火以降の東海道が成立してからなのではないでしょうか。
もう一つ、神社と言えば保土ヶ谷で忘れてはならないのが神明社ですが、それは青点で、江戸初期東海道から参道が伸びていますので、宝永大噴火以前に既にここに遷座されていたのだと思われます。遷座と言いましたがそれより前、創建の場所は西の神戸山です。
新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、
いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒き、かたひらの里
二回目の武蔵国入りは、
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、よみて同行の中へ遣しける、、、
というように、秋から冬にかけての旅路でした。
帷子に到着した頃も寒かったに違いありません。
かたびらというのは、巡礼の修行僧などが、仏像や経巻などを持ち歩く為の箱を背負う際、着物の肩部分が擦り切れないように着る、袖無し、裏地無し、勿論冬にそれだけ着ていたら寒くて仕方がない着物のことです。
道興は、そこをかけたのですね。
先を行きます、いわな坂の激坂を上り、
上り切った所が岩井原です。
岩井の原を過ぐるとて、
すさまじき、岩ゐの原を、よそに見て、結ぶぞ草の、枕なりける
すさまじき、は、今の言葉ではまず、凄い、というような意味で、岩井原のどこが凄かったのかと迅速測図を凝視しても、高台故か、人家が一つも無い土地で、手掛かりは掴めませんでしたが、古語辞典を引くと、しらけている、寒々しい、というような意味が最初にあって、合点が行きました。
先を行きましょう、北向地蔵は道標を兼ねていて、そのまま真っ直ぐが、"是より左の方かなさわ道" つまり鎌倉街道下道、右折が、"是より右の方くめう寺道" ですから、道標に従って右折します。井土ヶ谷駅も過ぎると、北条政子縁の乗蓮寺があります。
いわな坂の化粧井戸に続く、政子の史跡です。
先を行きましょう、源氏歴代の祈願所、弘明寺を横目に、
京急本線を越えると程無く、餅井坂です。
もちゐ坂といへる所にて、俳諧の歌、
行きつきて、見れ共みえず、もちゐ坂、ただ藁靴に、足をくはせて
苦労して坂を上がったが、餅を売る店は無く、ただ靴に坂を踏ん張る足を食わせただけだった、という歌ですね。私も、ジグザグ走法で何とか上り切りました。
先を行きましょう、横浜市立南高校辺りで武相国境道と合流し、相武山小学校の辺りで分かれますから、その辺りで相模国入りしたことになります。
馬洗川の谷に下り、馬洗橋です。
道興はこの後、馬洗川を遡り、上野庭に出ますが、ここに、弘明寺道道標があります。
道興は、鎌倉街道下道で鎌倉入りしたのではなく、弘明寺から餅井坂の間道で中道に切り替えています。その間道を、弘明寺道と言いますが、この道標によれば、どうやらここまでの道筋は正しいようです。
さぁ、ここからは当時のままの弘明寺道を行くことができます。
舞岡公園に入り鎌倉街道中道と合流します。ここからは鎌倉街道中道を行きますが、ここにも弘明寺道道標があります。
桂町戸塚遠藤線を跨ぐ陸橋を行き、環状3号線を見晴橋で越えると、小菅ヶ谷小学校の脇の坂道が、すりこばち坂です。
すりこばち坂といへる所にて、また俳緒歌をよみて人に見せ侍りける。
ひだるさに、宿急ぐとや、思ふらむ、路より名のる、すりこばち坂
これも餅井坂に通じますね。連歌とも言えます。ひだるさとは空腹の様です。腹が減って早く宿にと急ぐその坂の名はすりこばち坂とは空腹さを増幅させますな、という歌ですね。餅井坂で餅を食べ損ねてここすりこばち坂でもまたひだるさを増すのか、というわけです。
すりこばち坂を下り切っていたち川の谷に下りた三叉路にも、弘明寺道道標があります。
更に下り、いたち川の新橋の袂にも弘明寺道道標があります。
予測した道筋は間違いないでしょう、ここまで道標と一致していれば。
さぁ、本日のゴール、離山です。
はなれ山といへる山あり。誠に続きなる尾上もみえ侍らねば、
朝まだき、旅立つ里の、をち方に、其の名もしるき、はなれ山かな
離山の由来は、北から、腰山、長山、地蔵山の3つの山が離れているように見えたから、ということです。
すりこばち坂で空腹に喘ぎ宿を急いでいましたから、この辺りで宿を取ったのだと思います。笠間、大船、小袋などの集落がありますから。
翌日、道興は鎌倉入りし、亀ヶ谷、扇ヶ谷、笹目ヶ谷、梅ヶ谷、瓜ヶ谷、霧ヶ谷、紅ヶ谷、化粧坂、鶴岡、由比ヶ浜、金沢と行って、鎌倉を出て、藤沢へと向かいます。
如何でしたでしょうか。
前回の芝の浦、あら井(大森), まりこの里(丸子), 駒林、新羽、そして今回のかたひらの宿(帷子), 岩井原、餅井坂、すりこばち坂、離山は、道興憧れの人在原業平聖地巡礼も、歌枕も万葉集も殆ど無く、移動の回だったように思います。
次回は岩槻から浅草をexploreしたいと思います。