二宮通り大山道、羽根尾通り大山道
大山道シリーズ、これまで、
と来て、そして前回、
と、来ましたが、今回は、二宮通り大山道、羽根尾通り大山道と坂本通り大山道です。
二宮通り大山道は、東海道の二宮から、前回の土屋通り大山道と分かれ、中里、一色、五分一、井ノ口と行って、井ノ口の蓑笠神社前で羽根尾通り大山道と接続します。
羽根尾通り大山道は、風土記の前川村の記述: 海道中小名向原にて北に入る一路あり大山道なり幅六尺この道の人馬継立は当村にて勤め大住郡曽屋村に達す道程三里、と、ある通り、東海道の前川村の中小名である向原から北に入り、羽根尾村を経由して、以降、中村原、小舟、小竹、遠藤、北田: ここで六本松通り大山道と接続、藤沢と行って井ノ口で二宮通り大山道に接続する道筋です。
井ノ口から先は、(西)大竹、尾尻、曽屋、落合、寺山、坂本ですが、寺山までは上記リンクの六本松通り大山道で行った道筋です。
今回は秦野まで輪行、経堂5:15頃の電車でしたが、意外にも、朝帰りの若者達で席は埋まってました。下北でしょう。戻ってきましたね。
北口を出て水無川沿いを東へと行き、大秦町の丁字路で大山道に出て、上記リンクの六本松通り大山道では逆向きですが一度走りましたが、まずは井ノ口を目指します。
室川を渡り小田急を越え坂を上っていくと尾尻に入り、ここに、尾尻と大竹両村の鎮守、八幡神社があります。
八幡神社、境内掲示によれば、1070年頃には既にこの地に鎮座し、北条政子安産祈願所の1つであり、本地仏は鉄鏡に鋳出された阿弥陀三尊で1215年の銘があるとのことです。
尾尻ですが、風土記では、
"小田原道係る幅九尺"
と、書かれていて、今来た道は小田原道と記載されているようです。確かに、六本松通り大山道へ行けば小田原ですね。ということは井ノ口までの道は小田原道 = 六本松通り大山道と意識されていたのかもしれませんね。
次は西大竹村ですが、嘗て先の尾尻村と一村だったので、道については尾尻村に記載すると、風土記には記載されています。鎮守もそうでしたね。先の八幡神社は大竹村の鎮守でもありました。
ということで先に行きます。もう井ノ口です。
上記リンクの六本松通り大山道にも書きましたが、蓑笠神社には、以下のような面白い伝承が2つもあります。
まず1つ目。素戔嗚尊が天下った所が大山で、雨降山の名の通り来る日も来る日も雨で、嫌になった素戔鳴尊は蓑と笠を身に着け山を下りこの神社に一夜の宿を求めた。翌日は雨も上がり、素戔嗚尊はうっかり蓑と笠を忘れ、上吉沢八剱神社を経由して高来神社へとて行ってしまった。以降、井ノ神様と呼ばれていたこの神社は、蓑笠神社と名を改め、祭神も素戔嗚尊を祀るようになったという。※阿夫利 = 雨降 = 天降り、ということなんだそうです。※そう言えばこの辺り牛頭天王社が多いように思います。
2つ目。大磯の高句麗渡来人が、武蔵国高麗郡に移住する際、土屋、井ノ口、大井、松田と西へ進む集団もあって、それらは土着し後に金子氏となり、厚木、伊勢原、秦野と進み土着したのが秦氏である。
2つ目についてはいつか、渡来の道シリーズで行きたいと思います。
先を行きましょう、ここからは二宮通り大山道ですね、五分一村ですが風土記に道の記述も鎮守の記述もありませんのでスルーします。
次は一色村です。
風土記では、
"村南より西北に亘り大山道係れり西隣足柄上郡井ノ口に至る幅九尺"
と、書かれていて、はい、やはり、六本松通り大山道を過ぎた井ノ口より南は大山道という表記ですね。今来た道です。
尚、ここ一色村も鎮守の記載はありませんでした。
次は中里村です。
風土記では、
"大山道村の中央を通ず幅九尺"
とあって、今来た道です。尚、ここも、鎮守の記載はありませんでした。
程無く、生涯学習センター前の二又に至りますが、ここも祭りですね。
往路はコンプリートです。
二宮から東海道を西へ。
まずは、羽根尾通り大山道の起点の前川村です。
東へ戻って羽根尾通り大山道の起点に向かいます。
風土記では、既述のように
"海道中小名向原にて北に入る一路あり大山道なり幅六尺この道の人馬継立は当村にて勤め大住郡曽屋村に達す道程三里"
とあって、正に、中小名向原から北に入る一路を目指しています。
ここに、お不動さんが乗る大山道道標がありました。
突き当たって東、羽根尾に向かうわけですがここにもお不動さんが乗る大山道道標がありました。
東へと進み羽根尾村です。
風土記では、
"東海道巽方に係る幅五間、大山道北に貫けり幅一間"
とあって、大山道はこれから行く道ですね。
東へと向かった大山道が北へ方向転換する所に大山道道標があるはずですが、ここにあったんだろうなというエリアはあったんですが、見つけられませんでした。
尚、羽根尾村、鎮守は小舟村の白髭神社です。
北へ方向転換した道は神奈川県道709号線です。程無く、中村原村です。
風土記では、
"村内に大山道係る幅六尺"
とあって、今来た道ですね。鎮守は羽根尾村と同じく小舟村の白髭神社です。
旧道に拘りながら進み、
新幹線を越えると、小舟村、中村原村、羽根尾村鎮守の白髭神社です。
この神社、なかなかスゴイです。
奈良時代、行基東国行脚の際、当地小竹山頂に地蔵堂建立
平安時代、伊勢神宮神官広瀬入道実応がその地蔵堂で白鬚の神の霊夢を感じ、現在地に社殿造営、元慶元年(877年)9月9日に鎮座祭を行なった。
鎌倉時代の初め、現宮司の祖、嵯峨源氏松浦四郎入道綱泰が、近江国で白鬚の神夢をさとり、当社をたずね、領主中村氏を本願として、社殿再建した。この中村氏は、前回土屋村の土屋三郎宗遠の家です。そもそも中村氏は中村原から取った名前でしょう。
さて小舟村、風土記では、
"村内大山道係る村の中程にあり幅九尺"
とあって、今来た道が大山道ですね。
先を行きましょう、小竹村です。
風土記では、
"往還一大山道なり村の中程に在り幅六尺"
ですから今来た道です。
小田厚を越えると西に、先程、白髭神社の所で取り上げた中村氏館跡がありました。
先を行きましょう、遠藤村です。
風土記では、
"西北に小田原道、東の方南北に亘りて大山道係る南方足柄下郡小竹村より入る幅各二間"
ということですから、大山道は今来た道です。一方、六本松通り大山道は小田原道との記載です。確かに。
次は北田村です。
風土記では、
"南方より北に亘りて大山道係れり幅二間"
とあって、今来た道ですね。
風土記に、
"御塔坂大山道にあり小坂なり傍らに五輪塔あり"
と書かれている宇塔坂を上ります。
更に上って平地になると、風土記に、
"大山道にあり塚上に榎木あり"
とある一里塚です。
ここは絶景でした。
更に上り詰めると一本松峠で、ここに大山道道標があります。六本松通り大山道の時にも撮影しました。
尚、北田村も鎮守の記載がありませんでした。
ここから先は六本松通り大山道で走った所です。次は藤沢村です。
風土記では、
"村南より北方に亘りて大山道係れり幅二間"
とあって、今来た道が大山道です。
程無く、井ノ口に至ります。
ここから曽屋村まではスーッと行きましょう、三回目ですから。
そして曽屋村です。
風土記では、
"又南方より大山道入る是も継立を成せり子易村へ二里余り蓑毛村へ一里。冨士道は西方にあり、平塚道は中程にあり矢倉沢往還と十字を成す"
とあって、今来た道が大山道ですね。
さぁ、予定では、坂本通り大山道も行く予定でしたが、命に関わる猛暑日ということで、この辺りにしときましょう。冬にとっておきます。
如何でしたでしょうか。
宇塔坂はキツかったですね。久し振りに押してしまいました。私のチャリでは無理ですね。
しかし押しを挟みながらも何とか上り切った後の絶景は良かったです。富士山は雲の中でしたが。
さて相模川から酒匂川までの間の東海道からの大山道は、六本松通り大山道は冬に行ってるので、次回の小田原通り大山道で最後ですね。渋沢丘陵部分は、矢倉沢往還で走ってますので二度目になります。