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秋川街道

鎌倉街道山ノ道をexploreした時に、"もう1本あるんだ。", と、思っていたのです。

今昔マップより、多摩川と秋川の分水嶺尾根を越えるルートとして、赤点が実走した鎌倉街道山ノ道梅ヶ谷峠ルート、黃点は藪で撤退した同馬引沢峠ルート、で、緑点が、その、"もう一本", で、今回exploreした秋川街道です。

事前机上exploreした所、中々興味深いルートでした。

青梅は三田氏で五日市は北条だったということもあるのでしょう、戦国時代、交流はさほど無かったようですね。1563年に三田氏の辛垣城が北条氏照によって落ちても、その流れは引きずっていたようです。

1590年に八王子城が落ち、北条が滅び、徳川の世になっても、青梅は基本横なんですね。成木街道シリーズや青梅街道シリーズで書きましたように、青梅は石灰ですから、まず、江戸城普請で青梅街道で江戸に向かう動き。次に、石灰の需要が低くなり、数馬の切り通しが開通すると、日原大日堂参拝や甲州への裏街道として、ですから青梅街道で西へという、横の動きなんです。

一方で五日市は、既述のように北条ですから、八王子とは一体、交流も盛んで、滝山城の時代は古甲州道で、八王子城の時代は鎌倉街道山ノ道で、徳川の世になってもその流れを引き継ぎ、近代八王子の時代は八王子道と呼ばれたこの秋川街道でヒト・モノ・カネ・情報が行き来していました。八王子と言えば桑都ですから織物市ですが、五日市の黒八丈が大変人気で市の主力販売品だったようです。

この状況が変わったのが、変わらざるを得なかったのが、鉄道だと思います。

1889年、八王子から新宿までの鉄道が開通します。青梅線はと言うと5年後の1894年です。

元々、古道exploreしていると嫌と言うほど感じますが、全ての道は八王子に通ず、と言っても過言では無いくらい、八王子は多摩の中心地区でした。だから、だと思いますが、まずその八王子に鉄道が開通したんです。

この頃は生糸輸出で世界一、日清日露は生糸で勝った、と言われるほどでしたから、たった5年されど5年という5年間でした。

青梅としては、八王子に行きたい、でも道が無い、ということで開通したのが青梅〜五日市間の秋川街道です。ですから比較的新しい道なんですね。


青梅まで輪行、調布橋に向かいます。

調布橋から上流方向の眺望

それまで千ヶ瀬の渡しでしたが、1922年、調布橋が架橋されました。

今昔マップより、右の1928〜の古地図では調布橋が架かってますね。しかし、多摩川渡河後の秋川街道自体は、左の1894〜の古地図でも確認できます。

この架橋によって、益々、秋川街道は使われたのだと思います。

吉野街道、天祖神社を通り過ぎ、青梅市民斎場からは旧道に入り、秋川街道に復帰し、1つ目の名も無き峠を越え、

名も無き峠

二つ塚峠に至ります。

二つ塚峠、ここが多摩川と秋川の分水嶺尾根

下って、交差点名称としての二つ塚峠を過ぎると、左に旧道を入ります。

旧道の下り口はつづら折れで、そこに旧旧道が口を開けていました。

工場がありますが、殆ど使われないんでしょう、全く人気が無く、猪が怖くて撮影は無し、鎌倉街道山ノ道馬引沢峠ルートとの丁字路まで一気に下りました。鎌倉街道山ノ道との丁字路手前には望外に道標が。

五日市道

直ぐ先鎌倉街道山ノ道との丁字路には延命地蔵。

要となる所にはちゃんとありますね。

その先、旧道に入って坂本橋の袂、ここは鎌倉街道山ノ道梅ヶ谷峠ルートとの丁字路ですが、やはり望外の道標がありました。

右青梅町、左五日市町
右は鎌倉街道山ノ道梅ヶ谷峠ルートです。

少し先、西福寺の脇は、鎌倉街道山ノ道梅ヶ谷峠ルートと秋川街道との追分ですが、ここにも、望外に道標がありました。

右五日市、左八王子
左が鎌倉街道山ノ道です。

道標に従い右へ。平井川を渡って幸神を過ぎ、

ここにも望外に道標がありました。
右青梅道、左五日市道

まいまい坂で三内川の河岸段丘を下ります。

当時のまま

五日市駅の裏を通って、五日市宿へと至ります。五日市宿には、嘗て炭問屋だった青木屋が残っています。

慶応二年1866創業、今でも燃料系を取り扱ってらっしゃるようです。

地図を見ると分かるんですが、秋川街道は既述の通り、鎌倉街道山ノ道に交差するんですね。2度も。そこで鎌倉街道山ノ道に乗り入れ、八王子に向かう方が距離的には近いのに、何故、五日市を経由したのか。

これには非常に興味深い理由がありました。伊奈宿と五日市宿の市争いです。

今五日市街道と呼ばれている街道は、元々は、伊奈街道と呼ばれていました。

伊奈の歴史は古く、その名の通り、平安後期に、信州伊那から来た人達が開発した村です。

伊奈村鎮守岩走神社、祭神は、元々は手力男命、後、天稚日女尊、棚機姫命(養蚕、機織りの神様ですね。)を合祀。社伝によれば、仁平二年1152, 信州伊那の住民一二名が当地に来て開発、本国に鎮座する戸隠大明神の御分霊を祀ったとのこと。当日は祭りの準備か、男たちが普請してました。

良い石が採れるということで、青梅同様、家康入府時は、江戸城の築城などで使われ、大いに賑わいました。

嘗て賑わった伊奈横沢集落

しかし、江戸普請も落ち着くと主力商品が、石から檜原の炭に変わります。檜原の炭は五日市宿を経由して伊奈宿に来ます。江戸に持っていくならまだしも、八王子の市に出すなら、既述の通り、五日市宿と八王子宿は交流があり八王子道が通っていましたから、次第に、伊奈から五日市に市が移っていきました。

先程の青木屋はその頃から続いている炭問屋ということになりますね。

先を行きましょう、富田横丁から秋川を渡り小峰峠を越えます。

富田横丁から秋川河岸段丘を下る下り口にある粟島神社
当時のままの雰囲気を残す河岸段丘の坂、坂下の馬頭観音は見つからず
下り切ると田圃
秋川はバーベキューで大賑わい

八王子道、秋川街道は、幸いなことに小峰公園の中に保存されています。

八坂神社、嘗ては小峰峠付近にありました。
庚申塔と、
百番供養塔と、
馬頭観音が残っています。見えている道は秋川と川口川の分水嶺尾根で、この少し先が小峰峠です。この先は、右から来て、奥に向かいますが、左手のロープがかけられていて通行止めになっている道が八王子道、秋川街道です。

通行止めなので戻ります。

往路では気付きませんでしたが、この辺りが一番当時の雰囲気が残ってますかね。

小峰トンネルを抜けて、川口川沿いの秋川街道を下り、鎌倉街道山ノ道を3度目の通り過ぎをし、浅川に架かる萩原橋の手前には、嘗ての萩原製糸工場、後の片倉製糸八王子工場がありました。

蚕室、屋根の上に屋根
旧本社
旧工場

1855年の横浜港開港、生糸輸出開始に合わせるように、青梅、五日市の生糸が、この工場に運ばれるようになり、ここで、製糸されたのです。

さぁ、萩原橋で浅川を渡りますがこの橋は、明治10年(1877)に、萩原製糸工場の萩原彦七が、なんと、私財を投じて、架けたものです。

萩原橋から上流方向の眺望

その後、明治33年(1900), 当初の板橋から木造の橋に補強、架替えられました。これも、その殆どを、萩原彦七が負担したといいます。それに因んで萩原橋と名付けられました。生糸の需要がどれ程あったか、分かりますね。

橋の欄干デザインは生糸産業に因むもの、冒頭は蚕と桑の葉、これは機織りですね。

ということで、秋川街道は、織物、炭、生糸産業の勃興と共に、1877年の第一次萩原橋架橋、1889年の中央線開通、1900年の萩原橋第二次架橋、1922年の調布橋架橋といったインフラ整備で、徐々に発展していったのです。


如何でしたでしょうか。

35度超えの猛暑です。遠出、長距離は不可、午前中のみ、始発、と、限られた選択肢の中で、選んだのが秋川街道でしたが、なかなか興味深い道でした。

絹の道でもありましたね。

日本機械工業が、萩原製糸工場、片倉製糸工場の建物を今でも大切にお使いだったことも、大変良かったです。



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