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成木街道(石灰の道、白粉道), 上直竹〜赤坂峠ルート
成木街道シリーズ、前回は、
と、上成木から笹仁田峠経由で箱根ヶ崎に至るルートをexploreしました。
その中で、上成木村は、風土記に産物として記載される程、石灰の生産が盛んで、江戸城築城にも使われ、その、江戸城に石灰を運ぶのに使われたのが成木街道であることや、ルートは、当初、笹仁田峠越え〜岩蔵街道だったが、吹上峠開通後は、吹上峠越え〜青梅街道になっていったこと、また、笹仁田峠の西隣の赤坂峠越えルートもあって、その道は伝馬街道と言われていることを紹介しました。
今回は、前回の上成木村同様、下記のように風土記に、産物として石灰の記載がある上直竹村からの成木街道、石灰の道、白粉道を、赤坂峠越えでexploreしたいと思います。
"里正伴次郎、村民庄次郎二人の者、石灰を製す、是は世に謂ゆる八王子石灰の根元なり、相傳ふ二人の先祖某天正年中、八王子の城主北條氏の家臣たりしが、彼城沒落の後當村に引籠り、始て石灰を製せしが、慶長年中江戸御城御造營の時、石灰御用を務しよりこのかた今も替らず、此石灰を製するもの十二人の株となりて、其七人は多磨郡成木村にあり、三人は同郡小曽木村にあり、二人は即ちこの村にあり"
小作駅まで輪行、GWということもあってか、若干、南武線が空いていたように思いました。
まずは新田山公園に向かいます。この公園には、当時のままの伝馬街道が残っています。
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後北条氏の家臣で忍城城主だった成田氏、その家臣だった吉野織部之助は、秀吉小田原攻めの後、師岡村に土着しました。
1611年になると、新町村の開発に着手します。その一環として、それまで、笹仁田峠越え〜岩蔵街道のルートで運ばれていた石灰ですが、なんとか新町村を経由させたい吉野織部之助は、赤坂峠越えのルートを開発しました。赤坂峠から木野下神社の西を通り、今寺の一里塚の榎を抜け、新田山公園の北で、元々あった伝馬街道に合流させ、更に、新田山公園で、伝馬街道から東に道を分岐させ、箱根ヶ崎に向かうようにしたのです。
はい、整理が必要ですね。
前回の記事で、赤坂峠越えのルートを伝馬街道だと書きました。それが上記では、その道筋は、"元々あった伝馬街道" に合流させたと、書いています。
はい、そうなんですね。伝馬街道は元々ありました。笹仁田峠、山根通り、霞川と行って豊岡街道と岩蔵街道の交差点の直ぐ南で西へ分かれ、圏央道にぶつかり、公共施設敷地で道は消失していますが、新田山公園に至る道筋です。
この、言ってみれば、"旧" 伝馬街道に、新田山公園の北で、赤坂峠越えルートを合流させ、それを更に、新田山公園で、吉野織部之助が、東に分岐した、そういうことになります。前回の記事でご紹介した国蔵寺の千賀村峠の碑の説明は、旧伝馬街道に合流していることから、自然と、赤坂峠越えルートも、伝馬街道と言うようになったということだと私は解釈しています。
上記写真は東に分岐させた道でした。よって、"新" 伝馬街道ということになります。旧伝馬街道は跡形もありません。本来なら、上の写真の辺りで右に分かれていました。
ということで、以下、吉野織部之助の痕跡です。
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先を行きましょう、
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を抜け、木野下神社に向かう前に、報恩寺に寄ります。
本尊阿弥陀如来、深大寺末、弘仁十三年822延暦寺の僧亮海の開創、文禄五年1596上成木木崎縫之助、塩野出雲守により諸堂の整備、修造が行われた、ということで、前回登場した石灰生産のキーマン上成木村の木崎氏が登場しました。ここは赤坂峠ルート沿いです。上成木村から赤坂峠を越えるルートが成立していた痕跡と言えるでしょう。
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戻って木野下神社の西を通り、
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赤坂峠へ向かいますが、さて、ここから先、赤坂峠前後は、使う人もいないのか、事前机上exploreでは、webに情報が見つかりませんでした。果たして行けるのか、と、思ってましたが、いやいや、見事に残ってました。
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溜池を左に回り込み、その先はグラベルで、石灰を運ぶ人達も手を合わせたであろう、お地蔵さんと三界萬霊塔がありました。
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さて、ここから上直竹村への道筋ですが、岩蔵〜千賀村峠〜安楽寺〜下直竹〜上直竹だと不自然です。やはり、岩蔵街道〜常福寺〜日影林通り〜下直竹〜上直竹だと思います。
岩蔵街道沿いには岩蔵温泉街がありますが、今も残っているのは儘田屋だけとなります。
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T28に出て、
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先を行きましょう、日影林通りに入り、成木川を渡り、南高麗小の前を右に旧道に入って、長光寺です。
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さぁ、ここから直竹川沿いのサイクリングとなります。上直竹村上分の入口には昭和3年に建てられた南高麗の時計塔が。
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三角地と言えば庚申塔で、ここにもありましたが、草むらに道標もありました。
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バス停弁天前には立派な弁天様が。
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その直ぐ先に富士浅間神社。
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創建詳らかならず、ですが、明細帳に、"正保三年十月武州杣保内間野村木崎弥右エ門奉納ノ鰐口現存ス" とあります。
またしてもキーマン木崎氏登場ですが、今度は上成木村ではなく間野村の木崎氏です。間野は上直竹村の字ですから、上成木村から上直竹村上分間野に分家した木崎氏なのではないでしょうか。冒頭の風土記記載には氏名がありませんでしたが。
富士浅間神社の直ぐ先、観音寺の前には、石灰の焼き場跡が残っていました。木崎家の焼き場でしょう。
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この辺りから徐々に勾配がキツくなり、名も無き峠を越え、
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草むらの中の庚申塔をやり過ごし、
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山祇神社です。
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創建詳らかならず、ですが、ここも、木崎氏による創建と伝わります。
ここのバス停間野黒指の前にも焼き場跡が残っています。
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この先、光全寺で終点です。
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ということでその秘境細田村まで行ってみましょう。ここから勾配は本格的にキツくなります。
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如何でしたでしょうか。
前回ご紹介した上成木村から都県境尾根を越えた上直竹村上分に残る石灰生産の痕跡をexploreしました。
しっかりと痕跡は残ってましたし、上成木村の木崎家から分家した木崎家が中心となって行っていたようです。
いやぁー、木崎家、後北条氏家臣、見事に復活しましたね。
そう考えると、新町村の吉野家もそうですね。矜持ということでしょうか。
次回は北小曽木村から吹上峠ルートを行きたいと思います。