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府中通り大山道
大山道シリーズ、これまで、
と、12コース、行きましたが、今回は、今更ながらの府中通り大山道です。
この道、もう何度も走ってます。但し、大山道としてではなく、ですが。
この道は、府中通り大山道なんですが、武田信玄旗本進軍ルートでもあり、古代東海道でもあり、御尊櫃御成道でもあり、鎌倉街道上道でもあって、それらの目的で、よってもう何度も走ってきたのです。
大山道としてはメジャーどころではあるものの、だから後回しにしていたんですが、今後行きたい道は山道が多く、まだ少し季節が早い。そこで、逆に言えばこういう時の為に取っておいたとも言える、府中通り大山道を行くことにしたのです。
甲州道中からの大山道としては、浅川口に次いで2回目となります。
自宅から大國魂神社までは品川道で。大國魂神社からは甲州道中にスイッチし、美好町三丁目西の交差点が起点です。ここを南に折れ、分梅通りを行きます。
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南武線を潜り、中央道を潜って、新田川緑道に、分倍河原古戦場碑があります。
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冒頭申し上げましたように、府中通り大山道は鎌倉街道上道でもあって、1333年の元弘の乱における、新田義貞鎌倉攻めのルートで、多摩川を挟んで北條軍と分倍河原の戦いが繰り広げられました。
それにしても、分倍 "河原" とは?!, と思う方もいらっしゃるかもしれません。
今でこそ、この碑の前後は住宅街が広がってますが、当時は恐らく、先程の光明寺坂を下り切った所から現在の多摩川までは多摩川の流路で、"中河原" や、"下河原" という地名が示す通り、河原だったのです。その辺りのことは古甲州道の府中編で書いています。
ここで、この通りの一つ西に、甲州道中本宿から、上坂で府中崖線を下り、中央道を潜り、地蔵堂、間嶋神社、府中八中、一宮の渡しで多摩川を渡る大山道もあります。この道は、多摩川左岸の一宮の渡し開設が明治に入ってからですので、恐らくは、明治に入ってからの大山道と思われます。
先を行きましょう、中河原駅を通過し、関戸橋で多摩川を渡りますが、大山詣で盛んなりし頃は、少し上流の中河原の渡しで渡っていました。
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更に、大栗川を渡ると、金山大権現があります。
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冒頭、この道は徳川家康御尊櫃御成道でもあった、と申し上げましたが、その史跡となります。一行はここで川止めに遭い、一泊した際、この金山大権現を建立したということです。
何故、金山大権現だったんでしょうか?
その直ぐ先に、先程の分倍河原古戦場碑に相対する、関戸古戦場跡があります。
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更に直ぐ先には観音寺があって、この辺りが鎌倉街道上道霞ノ関北木戸柵があった所で、南側が、熊野神社にある霞ノ関南木戸柵跡となります。
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また、ここには、道興も訪れていて、廻国雑記に記しています。その時詠んだ歌です。
吾妻路の霞の関にとしこえは我も都に立ちぞかへらむ
都にといそぐ我をばよもとめじ霞の関も春を待つらむ
先を行きましょう。多摩市役所を過ぎ、乞田の交差点を南に行って、貝取北公園の手前に、御尊櫃御成道の瓜生一里塚の碑があります。
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分倍河原古戦場碑、関戸古戦場跡、霞ノ関はこの道が鎌倉街道上道であることを、金山大権現、瓜生一里塚は徳川家康御尊櫃御成道であることを示していますね。
さぁ、尾根幹を横切ると多摩ニュータウンは終わり多摩丘陵となります。ここで、これまで重なってきた鎌倉街道上道と一時分かれ、小野路で再び合流します。
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山を越えると小野路の集落です。
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そして小野神社三叉路が、府中通り大山道と鎌倉街道上道との再びの追分になります。
府中通り大山道は、白道寺を過ぎると徳川家康御尊櫃御成道の小野路一里塚があります。
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徳川家康御尊櫃御成道については逸話があり、向坂ですからちょうどこの辺りで、
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御尊櫃を運ぶ台車の車軸が折れ、小野路の鍛冶屋を呼び、修理させたということです。これにより、小野路村は助郷免除となったようです。
はい、金山大権現はこれが理由なのではないか、と思うのです。小野路の鍛冶屋のおかげで難を逃れたわけですね。鍛冶屋の神様は金山大権現です。川止めで時間が出来たので、向坂ではありがとうございました、と、祀ったんでしょう。
山を越えて鶴見川に下りました。
鶴見川渡河前、ここに、円福寺があり、道興はここ半沢の地にも訪れています。
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水半ば沢辺をわくや薄氷
ちゃんと、半沢という地名を入れ込んでありますね。
道興は聖護院門跡で、聖護院とは京都の寺で、本山派修験道の総本山。門跡とは皇族や公家が務める住職のことです。道興は、関白近衛房嗣の子でした。
1486〜87年にかけて、東国を聖護院末寺の視察として回り、廻国雑記にまとめました。
そこに、半沢も関戸の霞ノ関も登場するのです。
この道は、江戸時代、府中通り大山道として使われたんですが、鎌倉時代には上州から鎌倉に向かう鎌倉道として、江戸時代初期には徳川家康御尊櫃御成道 = 小田原から日光東照宮への道として、そしてその間の室町時代にも、使われた道なんですね。
さて道興は、円福寺を訪れたわけではないようです。
木曽の覚円坊という説もありますが、半沢ではなく木曽ですから。もう1つの説は、廃寺となった半沢の大蔵院です。白山谷戸の白山大権現の近くにあったとされています。
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聖護院は圓城寺増誉が開きました。師匠である第五代天台座主円珍がそうしたように、増誉も熊野で修行しました。その縁あって、京都聖護院の鎮守は熊野神社であり、熊野勢が本山修験を、本山修験勢が熊野信仰を、全国に広げていきました。この2つはセットなんです。
それを頭にもう一度霞ノ関を見てみると、熊野神社があります。ここ半沢も同様です。
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霞ノ関の熊野神社は1489年、道興が訪れたほんの数年後ですから、道興が訪問した時に創建された可能性もあるのではないかと思います。
また、この、"霞" ですが、本山派修験道では特別な意味があって、それは、縄張り、支配地、ということなんです。
まとめると、あの辺りには本山派修験道の寺があって、その鎮守として熊野神社もあった。鎌倉街道上道の関が、たまたま、その辺りに設置されたので、霞ノ関となった、ということなんじゃないでしょうか。
先を行きましょう。鎌田坂を上り返し、
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簗田寺には、これまで、鎌倉街道上道、徳川家康御尊櫃御成道としての痕跡は多数あったんですが、肝心の、府中通り大山道としての痕跡はありませんでしたが、漸くです。ここに、大山道道標があります。
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元は先の鎌田坂の府中通り大山道と鎌倉街道との追分にありました。
先を行きましょう、町田街道を横切り、木曽の集落に入ります。木曽の集落の終わりに、徳川家康御尊櫃御成道の一里塚があります。
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この先、境川を渡って、もしかしたら当時のままか、と、思わせる相模の原を行くと、
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徳川家康御尊櫃御成道の下溝の一里塚が、麻溝台のファミマにあったそうです。
先を行きましょう。峰坂で相模川の河岸段丘を下り、磯部の集落に入りますと、大山道道標があります。
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指示の通り南へ行くとここにも
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指示の通り行くと、磯部の渡しに至ります。ここで相模川を渡河し、対岸の猿ヶ島へ、ということですね。
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ここは橋が遠く不便です。大きく迂回し昭和橋を渡って、相模川右岸沿いに猿ヶ島に戻ります。
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猿ヶ島から相模川右岸の河岸段丘に向かいます。
河岸段丘を上る坂は馬坂で、ここにも大山道道標があります。
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坂を上り切った所にある長福寺にも不動明王が。
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ここからは八王子道に入り南下、山際郵便局手前に、正に道標ですね、大山道道標がありますので、
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道標に従い西進、依知小をグルっと行って、今度は中津川の河岸段丘を、大坂で下ります。
散田の渡しで中津川を渡るんですが勿論今はありません。少し下流の中津川大橋で渡ります。
そして今度は中津川右岸の河岸段丘を八幡坂で上り返します。ここに大山道の碑があります。
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台地に上がったら程無く荻野新宿の五叉路で、ここは、今来た府中通り大山道と、八王子通り大山道、津久井通り大山道(甲州道)の交わる所です。
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さてこの先、荻野川、小鮎川、恩曽川、玉川とアップダウンを繰り返し、津古久峠を越え、
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津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートと合流し、柏尾通り大山道に交差したら、そこからは柏尾通り大山道で大山を目指しますが、再訪になるので本日はここまでとします。
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如何でしたでしょうか。
最初は鎌倉街道上道、そして徳川家康御尊櫃御成道としての痕跡ばかりでしたが、相模川からは怒涛の大山道道標ラッシュでした。
それもそのはず、既述しましたが鎌倉街道上道とは小野路で、徳川家康御尊櫃御成道とは磯部で別れます。別れてから、大山道道標ラッシュになった、ということですね。