高麗郡街道シリーズ番外編、岡部氏
高麗郡街道シリーズの初回、
で、高麗郡の領主として、岡部氏が度々登場していました。
岡部氏は、武蔵七党猪俣党の猪俣忠兼が祖で、その子、岡部忠綱が武蔵国榛沢郡岡部を領地とし、岡部氏を名乗ったのが始まり。
岡部忠綱の孫、岡部忠澄は、源義朝、頼朝、義経に従い、活躍しました。
武蔵国榛沢郡岡部は今の埼玉県深谷市ですが、飯能市吾野の我野神社の社伝に、建久八年1197 九月の岡部六弥太忠澄が大檀那となった鳥居再建の記録があることから、この頃には高麗郡や、秩父郡の高麗郡寄りの地域にも進出していたものと思われます。
ということで今回は、高麗郡街道シリーズ番外編として、高麗郡に岡部氏の痕跡を辿るexploreをしたいと思います。
◇■□◆
西吾野駅まで輪行、いやぁ、遠いです。2時間と少し。
駅を降りてチャリを組み立てたら、R299秩父往還を少し戻り、我野神社を訪れます。
冒頭少し触れましたが、埼玉の神社によると、社伝に「景行天皇四十年110 日本武尊御東征の砌り、当地に遠祖神を勧請せられ、次いで同五十六年126 十一月御諸別王が平安を祈り日本武尊・建御名方神を合祀して三社と号す」とあります。また、所蔵している棟札の写しには、「御造営三社大明神 建久二年亥年十月吉日 右大将源頼朝承士八人 秩父次郎重忠奉行之 社職朝日藤太夫元次」と記されている古社であり、有力神社でありました。
岡部氏関連では、建久八年1197 九月の岡部六弥太忠澄が大檀那となった鳥居再建、神輿の棟札として「奉再興一社 大檀那泰忠(岡部)天文十九年1550 戌六月二日細工永茂 執行太夫左衛門五郎」があります。
ボールドした建久八年1197の記録から、岡部氏は、この頃には、この辺りに進出していたことが分かります。
秩父往還R299を吾野駅方面へ。駅前に、法光寺があります。
風土記によれば、
"・・・開山日峰伊鯨、天正十九年九月廿一日示寂、開基金榮全鏡庵主寂年を傳へず、俗稱は岡部左衛門入道妙高(1384~86)と云・・・"
ですので、岡部氏縁の寺、ということになります。
法光寺の直ぐ近く、高麗川を渡った向こうに、秩父彦神社があります。
社伝によれば、垂仁天皇278 - 298の時代に知々夫彦命を勧請し、建久元年源義経の家臣岡部六弥太当地に落ちて居住、当社を崇敬し社殿を補修する。後、永徳五年1385六弥太の子孫岡部新左衛門が本殿を再建、以降岡部家の氏神として崇敬された、とあります。
ここも岡部氏縁の神社ですね。
そして、ここ秩父彦神社の高麗川を挟んで正面にあるのが龍崖山で、ここに、岡部氏の館がありました。
ということで、ここ吾野は、岡部忠澄(1100年代後半)から岡部(新)左衛門(1300年代後半)まで、岡部氏の支配だったということになりそうです。
先を行きます。東吾野駅まで岡部氏の痕跡は無く、東峠を越え原市場に向かいます。
下ります。
東峠から中藤川の谷に下り立つと野口で、ここから、K350を中藤川に沿って遡上し、南村中澤組へ向かって、御霊明神社を訪れます。
風土記によれば、
"御霊明神社鎌倉權五郎景政、岡部六彌太忠澄の靈を合殿に祀れり、社地杉樹繁茂生す、社前に鳥居を立、慶安年中三石の御朱印を附せらる、神職落合飛騨、吉田家の配下なり"
と、いうことで、ここは一山越えますが、冒頭の吾野駅周辺の、岡部忠澄から新左衛門までの、1100年代後半から1300年代後半までの岡部氏の痕跡、ということになりますね。
来た道を戻り、中藤上郷からは倉掛峠を越えて高麗郡街道に接続し、
入間川を遡って、茶内には再訪ですが星宮神社があります。
風土記によれば、
"妙見社、慶安二年二石五斗の御朱印を附せらる、社内に元禄中の棟札あり、その文に康永二癸未十一月三日、畠山駿河守重俊草創、元亀二辛未1571 六月三日、加治修理大輔・岡部小次郎佐、久林民部少輔再興すと見えたり・・・"
茶内から高麗郡街道を入間川沿いに下って小瀬戸に入りますと、ここの子安浅間神社も再訪ですが、岡部氏所縁でした。
明細帳によれば、口碑に、"昔当地に在住した相州鎌倉の家臣岡部氏の勧請したものであろう" というものがあるようです。
子安浅間神社から入間川沿いに高麗郡街道を下り、飯能第二小の付近は、岡部小右衛門忠正(1555 - 1558)の館跡と目されています。
その直ぐ西隣にある岩下観音堂には、岡部忠澄の守り本尊観音様が祀られていると言われています。
またこの敷地内、深い藪の中には、岡部一族の墓がありました。
小瀬戸から榎坂を越え苅生の谷に下り立ち、
苅生川を下って下直竹に入りますと、ここに、再訪ですが、長光寺があります。
風土記によれば、
"鳳林山と號す、曹洞宗、郡中飯能村能仁寺末、慶安二年十五石の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、貞治五年通海と云る僧の開創する所なり、通海は應永二年正月十六日化す、中興傳法開山格翁方逸、弘治二年八月廿三日寂す、開基岡部小右衛門忠正、法號即照院忠安永澄、歿年は弘治年中(1555 - 1558)なりと云傳ふるのみ、此忠正は郡中小瀬戸村に土着し、慶安の頃東都に召れしと、今の岡部外記が先祖なり、岡部氏代々の墓ありしが、何の頃か杉並の天慶寺へ移せしと云、なを小瀬戸村の條併せ見るべし"
と、いうことで、吾野周辺から東峠で一山越えて、茶内小瀬戸の入間川沿い、更に榎坂で一山越えた下直竹の辺りは、同じく岡部氏支配ですが、時代は大きく下って1550年頃となります。移ってきたということなのだと思います。
岡部氏は戦国時代、鎌倉公方に仕え、後、扇谷上杉氏に仕えましたが、1546年の河越夜戦で主君扇谷上杉氏が滅亡しましたから、その後は後北条氏に仕えて徳川の時代へと入っていきます。徳川の時代には旗本となり、この地を去って多摩郡田畑村、現在の杉並区に墓も移しています。
如何でしたでしょうか。
岡部忠澄が最初にこの地に入った吾野の地から、最後の下直竹まで、移動のルートは、吾野 → 平戸 → 東峠 → 小瀬戸 → 榎坂 → 下直竹、だと思われ、本日は、このルートを基本に組み立てました。
岡部忠澄が吾野の我野神社に鳥居を再建した1197年から、杉並に移った1633年頃まで、430年間、この地を支配した岡部氏。この間、主君を、源義朝、頼朝、義経、畠山重忠、足利尊氏、鎌倉公方、扇谷上杉氏、後北条氏、徳川と変えながら、生き延びてきたんですね。
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