甲州道中、与瀬宿、吉野宿、関野宿、上野原宿、鶴川宿
今年の夏休みに諏訪に行き、諏訪大社下社秋宮を訪れました。
その際、ここが正に甲州道中と中山道の合流点、つまり、甲州道中の終点であることを知り、少し探索しました。
これも何かの縁、ということで、次は甲州道中をexploreして、またここに戻ってこようかとふと思い、諏訪から甲府にかけて、今昔マップとGoogleマップを確認した所、意外に旧道が残っていました。
甲州道中の存在は勿論知っていて、自宅付近の、烏山辺りの旧道や、布田から府中にかけての旧道等は、何度も走っています。全体的な印象は、旧道が少ない、つまり、旧道と現道が重なっていて、古道の風情のようなものが感じられないというもので、甲州道中exploreは敬遠してた向きがあったのですが〜だから、古甲州道や甲州裏街道青梅道を先に実走していました〜上述のように、意外に旧道が残っていたので、走ってみようかと思い直したのです。
甲州道中の起点は江戸城半蔵門ということですが、都内の道を走ってもつまらないので、甲州道中与瀬宿からスタートしたいと思います。
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中央線相模湖駅、昔の名前は与瀬駅まで輪行、相模湖駅前のR20は甲州道中の与瀬宿です。
与瀬宿はこの東、山梨信金相模湖支店の東、歩道橋の所、旧道が現道に合流する辺りから始まり、本陣があった辺りまでのようです。
与瀬宿の本陣は、代々、武田氏家臣坂本家が務めていました。調べると、御目付衆の一人に坂本武兵衛という人がいました。坂本氏はこれだけのようですので、この坂本武兵衛のことと思われます。風土記によれば天正十年1582, 武田家滅亡のその年にここ与瀬宿に移住しています。この時はまだこの地は北条の領地ですので、隠れ住んだという感じでしょうか。ここは相甲国境ですから、それまでは戦闘が多かったはずですが、武田家が滅亡してしまえば、北条としてもさほど気にする土地ではなかったということでしょうかね。
ここ与瀬宿には、慶応四年1868三月三日、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が宿泊しています。本陣1軒、脇本陣はなく、旅籠は6軒あったということですから、二百人余りいた部隊は、分宿したんでしょう。
雪の降る日でありました。小仏峠を越え、合宿で上りを担当する小原宿には宿泊せず、下りを担当する与瀬宿に泊ったのは、急いでいたからでしょう。官軍より先に甲府城を押さえたかったのです。しかし雪で断念、急遽、急遽、与瀬宿宿泊となりました。この後、結局間に合わず、甲府城手前の勝沼で合戦となります。
与瀬宿本陣跡のクランクが宿の終わりを示していますが、次の宿、吉野に向かう前に、脇道を探索してみたいと思います。
広重は天保十二年1841, 甲府道祖神祭り幕絵制作のため、甲府を訪れています。その時、甲州道中を使っているのですが、与瀬宿から吉野宿へ行くのに、相模川を二回越える、二瀬越のルートを使ったようです。
本陣跡のクランクのほんの少し先、7/11の先に南に入る道があります。これが二瀬越ルートです。
さて、戻りまして与瀬宿の鎮守は与瀬神社で、本陣跡の直ぐ北に鎮座しています。
ここは興味深いです。まず、ここは今で言う御嶽神社です。風土記では、蔵王社、と記されています。この神社の伝承に、ヤヨとキヨという、恐らくは兄弟がいて、目の前の相模川で漁をしていたところ、網に御神像が掛かってそれを祀ったという創建の物語がありますが、地理的には川ですから、水神様なら分かりますが、蔵王権現、山の神なんです。山の神が川から流れてきますかね?!
ただ、元は相模川畔の御供岩という所に祀られていて、この御供岩が、御神像を引き上げた所という話もあるので、仏像か神像が川から引き上げられたのも、確からしいと言えば確からしい。
また、小原、与瀬、吉野という地名は蔵王権現本社彼の地を模しているとも風土記では言われており、これは確かそうではあるから、蔵王権現は確かとすると、川から流れてきたのは蔵王権現御神像ではなく、別のものだったのかもしれません。
と、なれば、この蔵王権現はどこから来たのか。それはやはり、奥多摩の御嶽山だと思われます。御嶽山から養沢、秋川南谷、三国峠を越え、佐野川、与瀬ではないでしょうか。
以上、関係者の方々には申し訳ありませんが、誠に勝手ながら、妄想させて頂きました。
与瀬宿鎮守与瀬神社を後にして、中央道で寸断されている甲州道中を階段で回避して、中央道の向こうに出ます。R20が旧道と思いきや、その東に、先程寸断された続きの旧道が残っています。
甲州道中旧道は、貝沢を渡る為、明治期に作られた現道R20よりも上流に遡って貝沢を渡ります。
貝沢を越えると与瀬一里塚がありますが、ここから甲州道中は明治期に作られた現道R20と離れて山側を進みます。
桜沢、奥沢を越え、次の小寒沢は谷が深いのでしょう、更に大きく離れて小寒沢の上流へ大きく回り込みます。
しかしここは沢が埋められています。本来の道筋は更に上流でした。
尚ここから、明王峠を越えて武蔵国まで続く古道があり、甲州裏街道として機能していたと思われます。諏訪の関は通過しなければなりませんが、小仏関所は回避できますから。
中央道を越えて中央線の手前で土道が残る旧道を行きます。
土道から舗装路に復帰した後は、グーグルマップでは左ですが、今昔マップを見ると右です。相模湖インター道を越え、
高札場を通り過ぎ、R20に合流するとここから吉野宿が始まります。
春日ですか。吉野と言い、春日と言い、やはり、奈良からの移住があったのでしょうか。そう言えば、小寒沢の西、浄光寺がある集落は、奈良本、です。これはもう間違い無いのではないでしょうか。と、なると、与瀬宿の所で、与瀬神社 = 蔵王権現社は、多摩の御嶽山から来たと言いましたが、間違いですね。奈良から移住してきた人たちが、地元の神様、蔵王権現を持ってきたんだと思います。尚、ここから津久井道を行って長竹には奈良から移住した人たちによる集落があり、春日神社もあります。
吉野橋で沢井川を渡ると吉野宿も終わります。古道はここで河岸段丘を下り沢井川を渡河していました。
沢井川は沢ではなく川ですから規模が大きい。橋無しで渡るには、和田峠近くまで遡らなければなりません。流石にそこまで迂回できませんから、谷に下りるしか選択肢が無い、ということになります。
藤野の一里塚を通り過ぎ、藤野駅前も過ぎると、一本南の旧道を行きます。グーグルマップではこの手前も先も旧道と書いてありますが、甲州道中旧道は、R20 70キロポストの先で左に入り、沢の手前で現道R20に接続する形で続いていました。
旧道から現道に復帰し少しすると関野宿です。
関の宿、ここは相州と甲州の国境です。この先の境川が、その名の通り、国境になっています。甲州に入って直ぐ、諏訪の関がありますから、色々と準備も在ったのでしょう、規模は小さいながらも宿としてのニーズはあったということでしょうか。
増殊寺を過ぎると旧道に入れますが直ぐにまたR20となります。が、手前で脇道に入らないと三柱神社には辿り着きません。
この三柱神社、明治六年1873に、八坂神社と大牟礼神社を合祀して三柱神社に改称していますが、元は、唐土大明神でした。関野宿がある小渕村の鎮守です。
唐土大明神です。個人的なテーマでもある、"渡来の道" シリーズにも該当する神社ですね。
由来書が残っていて、その内容は: 孝安天皇の御代bc426 - bc292, 秦の始皇帝の命により、徐福が、長命不死の良薬を求め、日本に渡来したが、その際、始皇帝自らその尊像を徐福に与えた。徐福、その尊像を携え、筑紫に上陸、東へ進むも容易く回ること叶わず、この地に至り、鷹取山の中央の岩石に尊像を納め、この地を去った。村人はその尊像を祀り、その後、唐土大明神と呼ぶようになった、というものでした。
忽然と、ここに、渡来人伝承です。確かに、この先の上野原には難読地名エリアがあって、渡来人由来と言われてもいますが。何れにせよ、追いかけたいですね。次に取っておきましょう。
三柱神社から甲州道中に復帰して、下る坂道は関野坂、当時の雰囲気が残っています。
本来の道筋はこのまま小渕沢の相模川との合流点まで下って小渕沢を渡河し、そのまま、相模川沿いを進み、やはり境川の合流点を渡河して、上野原の台地に上がっていたようですが、勿論その道は残っておりません。
明治期に作られた現道K520を行き、境川で相州・甲州国境を越え、
相模川河岸段丘のつづら折れを上る直前、甲州道中旧道が一部残存していました。
つづら折れを上るとここにも残存部分
そしてここからの眺めが素晴らしかった!!
3つ目のつづら折れを過ぎてピーク直前に諏訪関があります。
諏訪関を過ぎると諏訪神社があります。
ここは上野原の歴史をそのまま映し出している神社です。
当初この地では集落二十八戸で御犬様を祀っていました。
康治年間1142~1143, 横山党横山三郎忠重が当地に進出、土着して古郡忠重と名乗り、その後、久安年間1145~1150になって、一族の氏神として古郡神社(この神社)を創建したのが始まりです。この時だと思いますが、村民二十八戸は改宗させられたといいます。
古郡氏は横山党ですから、1213年の和田合戦で滅亡します。古郡氏滅亡後、1249~1268年、建長寺開山僧の一人大覚禅師が、信州の豪族、上原上野介義実を伴ってこの地を訪れ、古郡氏滅亡後に荒廃の一途だった社殿を再建、故郷信州諏訪大社の御霊を分祀し、その名を古郡神社諏訪大明神としました。
古郡氏に入れ替わり、頼朝伊豆以来の忠臣、加藤氏にこの地が与えられ、以降、この加藤氏によって、武田家滅亡まで、この神社は守られることになりますが、1569年の武田信玄小田原攻め、三増合戦の際、国境を越えて追撃してきた北条軍に焼かれたか、伝承によれば、武田勝頼軍が、寒さをしのぐ為、拝殿の板を燃やしたと言われています。尚、加藤氏は、戦国期、武田氏の家臣となっています。
先を行きましょう、中央道を越え、一里塚も越えて、R20と合流する辺りから上野原宿が始まります。
先を行きましょう、保福寺から戻った交差点が本町の交差点、その一つ先の三叉路を左に行くのが甲州道中です。馬頭観音や道祖神を過ぎると変形四差路、あるいは三叉路ですが、真ん中を行くのが甲州道中です。この先で更に二又に別れますが、そのまま直進は明治期の道筋、左が江戸期甲州道中です。河岸段丘のエッジになりますが、ここに、二十三夜塔があります。古道の証拠ですね。
ここの金網の向こうに折り返すようにあるのが、甲州道中残存部分です。先には行けないようですが。
仕方が無いので、そのまま下り、昭和期のR20を北上すると、歩道橋手前に鶴川河川敷に下りる階段があり、甲州道中が続いているんですが藪で突破不可。仕方無く明治期の道筋で鶴川を渡りますが、渡った先に先程企業で寸断された甲州道中の続きが残っています。
さて鶴川宿です。
鶴川宿の探索終了を以て、甲州道中初回はここまでとします。上野原駅から輪行で帰ります。
次回はいよいよ山越えです。
如何でしたでしょうか。
冒頭、以前は、甲州道中は現道との重なりが多く風情が無いと思っていた(決め付けていた。)が、改めて地図を見ると、諏訪から甲府にかけては意外に旧道が残っている、と言いましたが、今回の与瀬宿、吉野宿、関野宿、上野原宿、鶴川宿についても、どうでしょう、7割方旧道だったんじゃないでしょうか。ダンプや大型トラックに追い立てられることも少なく、楽しいサイクリングでした。
旧道が多く残っている一つの理由が、地形でしたね。相模川は相模湾水位低下の影響を強く受け、深いV字渓谷となっています。相模川に注ぎ込む各支流、沢も、それに伴い深くなっていて、橋無しには渡れず、江戸期の土木技術では、大きく上流に回り込む必要があります。明治期に入ると、土木技術が進展し、下流域に架橋することが出来るようになりますので、新たに現道が作られ、旧道が残るということになったわけです。ですから、相模川流域を行く今回のルートでは、旧道が多く残っていた、ということですね。
それから甲相国境ということで、与瀬宿と吉野宿の里正は落ちて来た武士でしたし、この集落全体が奈良からの移住者と思われます。また、北条と武田の戦闘の痕跡も多く残っていました。
次回は大椚から、打って変わって尾根を行く道となります。
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