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日本のシルクロード、厚木街道
このシリーズの前回、そして、前々回は、鑓水、町田街道・八王子街道・絹の道周辺の、これで日露戦争に勝ったとも言われる、怒涛の生糸輸出ユーフォリアの痕跡を訪ねました。
間が空いたので少しおさらいしましょうか。
1858年に日米修好通商条約が締結された、、、というのは皆さん学校で習ったと思いますが。
この翌年、それまでに既に開いていた函館、下田に加え、長崎、函館、そして、横浜港も開港しました。
この年、横浜港で、イギリス人が、生糸六俵を高値で買い取ったんです!!!
外国には生糸が高値で売れるぞ!!!、と、なって、この瞬間から、怒涛の生糸輸出が始まります。
それまで、生糸、あるいは絹織物の出荷先は江戸でしたから、武州、相州、甲州などの産物は八王子に集結し、その後、江戸に向かっていましたが、直接、横浜に向かうようになります。
海老名、厚木もそうで、厚木街道を使って横浜に運んでいました。
今回は厚木街道を海老名から出発し、その周辺の生糸輸出の熱狂の痕跡をexploreします。
◆□■◇
海老名まで輪行、残暑厳しき折、無理はしません。
古東海道・矢倉沢往還・大山街道を東へ戻り、伊勢山大神宮を訪れます。
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縁起は詳らかならず、ですが、ここは特に養蚕守護として崇め奉られました。その理由は後で説明します。
先を行きます、弥生神社です。
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この神社は、明治42年に周辺の神社を合祀したものですが、ここに蚕影神社があって、生糸産業関係者に篤く崇敬されました。
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先を行きます、目久尻川を小園橋で渡って坂を上り詰めると、小園子之社です。
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この神社の裏手には、
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宏福神が移設されています。この神様は、当初、伊勢山大神宮に祀られていました。伊勢山大神宮が、養蚕守護として信仰されたのはこれが原因だと思われます。アマテラスが養蚕守護というのは聞いたことがないので。
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子ノ神社の祭神は、大国主命であることが多く、大国主命は蛇ですから、鼠を食べてくれる蛇は養蚕守護の神様として崇敬されるケースが少なくありません。
小園子之社は元々養蚕守護として崇敬されていたから、宏福神もここに還座したのではないでしょうか。
先を行きます、そのまま南下して、東名の直ぐ脇にある、稲荷神社です。
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先を行きます、寺尾本町には、これは恐らく大山へのお不動さんが乗っていたと思われる道標があります。
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先を行きます、東名の蓼川橋を渡った先に鎮座する弁財天です。
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この弁財天の御神体は、
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ミイラ化した蛇を真綿で包んだもの、ということです。
ここは蓼川の上流部でそこに製糸工場があって、そこで発見されたということです。
既述のように蛇は養蚕守護として祀られていました。
また、厚木街道の生糸産業が見えてきましたね。
生糸産業は、蚕種製造、養蚕、製糸と分業されていて、厚木は養蚕が盛んだったそうです。繭を生産した後は、製糸工場に販売、出荷したわけですが、厚木街道沿いに製糸工場があり、そこに出荷、そこで、生糸になり、横浜に運ばれたんだと思います。養蚕の痕跡が古地図の桑畑、製糸工場の痕跡がこの製糸工場跡ということになります。
先を行きます、厚木基地をやり過ごし、藤沢街道との辻に、庚申塔があります。
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先を行きます、境川を渡って瀬谷に入り、鎌倉街道上道を北上して、瀬谷銀行跡地です。
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明治40年(1907)、瀬谷村の村役だった小島政五郎が養蚕業向けの銀行、瀬谷銀行を開業しました。
どうせ後で大儲けする算段は出来てる、その時返せば良い、ここで借金しなければその大儲けが出来ない、ということで、実際、そうなったんだと思います。バブルの頃の不動産業と同じですね。兵どもが夢の跡、です。
鎌倉街道上道を戻り、日枝社です。
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ここに、護蚕祠があります。
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更に戻って、川口製糸工場跡地です。
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明治35年(1902)創業、昭和34年(1959)まで続きました。品質はトップクラス、全てアメリカに輸出されていました。敷地には、工場のみならず、スポーツ娯楽施設や工員の為の学校まであったそうです。厚木の繭は厚木街道を通ってこの製糸工場にも運ばれたんだと思われます
更に戻り、徳善寺です。ここには、山門前に、萬霊塔があります。
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勿論、神頼み、ということもあると思いますが、寄進ですから、儲かってたんでしょうね。ユーフォリアです。
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県道401号瀬谷柏尾線を東へ。ここに、長天寺があります。
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ここに、養蚕童子が祀られているとのことでしたが、見つかりませんでした。が、、、
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ダルマといえば養蚕守護ですから、養蚕童子は見つかりませんでしたがやはりここは、養蚕農家、製糸工場から、崇敬されていたものと思われます。
厚木街道に復帰して、二ツ橋神明社です。
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ここの灯籠は、
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養蚕組合の寄進です。
厚木街道を戻りまして橋戸に庚申塔が集められていて、
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そこに、蚕神の石塔があります。
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少し離れますが宮沢の神明社の境内社には、
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白姫神社は祭神が蚕神です。三峯神社も養蚕守護で有名でしたから、こちらもそうなんでしょう。
厚木街道に戻る道筋で、長屋門公園に寄ります。
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屋根の上に一つまた屋根があるのは、お蚕さんの通気の為です。これで養蚕農家の家かどうかが分かります。
また、この公園の直ぐ近くには製糸工場がありました。
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厚木街道に復帰して、白姫神社です。
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元は阿久和にあったということですが、養蚕の衰退に伴いこちらに移転したとのことです。先程の宮沢神明社は和泉川を越えたら阿久和ですから、宮沢神明社の境内社の白姫神社と関係があるかもしれません。
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厚木街道はこの後、丘陵地帯へと入っていき、よって、桑畑は見られなくなりますが、勿論、横浜港まで続いています。
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厚木街道は和田橋で八王子街道へと接続し、神奈川湊へ向かい、東海道と接続、横浜港開港後は横浜道で横浜港に向かっていました。
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如何でしたでしょうか。
ちょっと、長くなりましたが、それだけ、痕跡が残っているということです。
相模原台地、東の境川から西は相模川までのエリアは、台地なので水田は無理、水の確保が難しく、人家もまばらで荒れ地が多い、そこに、怒涛の生糸輸出が始まりましたから、桑畑は作り放題だったわけですね。結果は全て正しい、そういう地形だったからこうなった、ということです。これが一つ。
もう一つは、厚木街道というと、今で言うR246を思い浮かべると思います。それも厚木街道ですが、今回のルートもまた厚木街道なんだと、庚申塔道標を繋いでいくことで分かりました。これも興味深かったです。