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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜川越、勝呂

このシリーズ、これまで、

と、exploreしてきました。

道興は、相模国から恋ヶ窪を経由して十玉ヶ坊に入り、そこを拠点に、十玉ヶ坊周辺の柏の城や浜崎、そして笹井観音堂、川越、勝呂、野寺・野火止・膝折、所沢・久米川を訪れています。

今回は、川越、勝呂の、道興の歩いた道をexploreします。

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鎌倉街道で自宅から十玉ヶ坊に向かいます。

鷺宮八幡神社、冬の朝の空気感が出てますね。神社庁によれば、"康平年間、源頼義公勅を奉じ東国平定後鎌倉街道に面した当地に社殿を建て八幡神の御神霊を奉祀し戦勝感謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始まり"
高松八幡神社、神社名鑑によれば、"当社の創建は康平七年(一〇六四)陸奥守源頼義勅を奉じ東国平定後、当地に社殿をたて応神天皇を祀り、戦勝感謝と国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのがはじめであると伝えられている。社殿は鎌倉街道の北に回し、街道の南に、先に鷺宮八幡をたて、その後、当社を建立したので鷺宮八幡に対し若宮八幡と称し、現在も例大祭に掲げる大幟には若宮八幡と大書されている。"

途中、扇ヶ谷上杉持朝が、古河公方足利成氏に対抗する為、太田道真、太田道灌親子に命じて、1457年、築城した河越城、同年追って太田道灌が築城した江戸城とを結ぶ、扇ヶ谷上杉氏防衛ラインである河越街道に合流しますが、ここに、武州白子熊野神社がありました。

武州白子熊野神社

埼玉の神社によれば、この武州白子熊野神社の、江戸時代は別当であったことが確認されている神滝山不動院は、通称、滝不動といい、天長七年830, 慈覚大師円仁が堂宇を建立と伝わる古寺です。

滝不動

熊野神社自体の創建は詳らかならずですが、延慶年間1308-1310の板碑があり、滝不動と合わせて、その頃から、霊場として栄えていたと思われます。

つまり道興が歩いた時期、1486-1487には既にその存在を知られる霊場であり、廻国雑記に記載は無いけれども、道興が立ち寄った可能性はあるのではないか、と思われます。

そんな寄り道をしながら、十玉ヶ坊に到着、歌に詠われたうとう坂に向かう為、水子を目指します。

道興は、十玉ヶ坊から "河越" へ向かう際、どのルートを採ったのか。全く以て分からないのですが、うとう坂は川越街道にありますから、鎌倉街道を戻り川越街道を行ったか、柏から、ちょうど、東武東上線に沿ったルートに古道がありますから、そのルートで行ったか、あるいは水子にも古道がありますのでそちらのルートか。

道興が歩いた時期に既に存在していた可能性がある本山修験寺院の存在を見てみると、どうも、水子ルートのような気がしてきました。

ここ水子には、水宮神社があります。

水宮神社

水宮神社は、室町時代に本山修験摩訶山般若院として創建され、神仏分離により、水宮神社となっています。その般若院ですが、風土記によれば、

"般若院、本山修験南畑村十玉院の配下なり本尊不動は長さ一尺ばかりなり運慶の作という"

隣と言っても良い近さの上水子ノ氷川神社にある浅間社、稲荷社も般若院の持でした。

上水子ノ氷川神社の浅間塚
上水子ノ氷川神社の稲荷社、一番右の赤い祠がお稲荷さんです。

古社で、運慶の不動を祀り、持ち神社も多く、勢力を張っていたものと想像します。道興も寄った可能性があるのではないでしょうか。

富士見江川を油橋で渡って、下鶴氷川神社に寄ります。

下鶴氷川神社

ここは三光院が持っていた神社で、風土記によれば、

"三光院、台明山と号す、元は修験なりしか、年歴は伝えず天台宗古谷本郷灌頂院門徒なりしという本尊不動なり"

その三光院ですが、昭和35年1960焼失とのこと。風土記にあるように、江戸後期にはもう修験ではなくなっていたからこそ、廃仏毀釈を生き抜いたものと思われます。

一説に、開山は延宝2年1674とありますが、修験から抜けた後のことだと思われます。修験としての開創は、道興の時代まで遡れるのでしょうか。

三光院跡
左端のお地蔵さんの台座です。三光院、と、ありますね。

先を行きますと、藤久保に浅間神社がありますが、

藤久保浅間神社

風土記によれば、

"淺間社、東乗院持"

"東乗院、木宮山と云、本山修験、下南畑村十玉院配下、本尊は不動なり、起立の年歴詳ならず、其先祖は攝津國大坂の人にて鈴木を氏とせしと云、近き頃までも武器等多く持傳へしが、今は大抵失ひて刀二振蔵するのみなり"

江戸時代の別当東乗院の先祖が鈴木氏ですから、熊野修験で間違い無いでしょう。道興が歩いた時、既にあったのでしょうか。

ということでこちらも年歴を伝えずということなので、道興が寄った可能性があるかもしれません。

鎌倉街道古坂を下って砂川堀を渡り、

古坂

川越街道を旧道を選びながら進むと、

これにて百句興行し侍りけるとなむ。これより武士の館へまかりける道に。うとふ坂といへる所にてよめる。
うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな

うとう坂、左の森が熊野神社

さて、何故、道興が烏頭坂を訪れたか。訪れたというより、通らざるを得ないのですが。それは恐らく、熊野神社だと思われます。

熊野神社

元の場所はここではないですが、付近のようです。創建詳らかならず、ですから、逆に、道興が通った時にも既に存在していた可能性があります。

さて、"これより武士の館へまかりける道に" の、武士とは誰のことか。廻国雑記で武士と言えば武蔵守護代大石信濃守定重ですが、"うとふ坂こえて" ですから、十玉ヶ坊から川越に向かう方向です。となると大石定重ではないということになります。

では誰か。

今回の川越行で、

"此さとに月よしといへる武士の侍り。"

と、記されていますから、この武士のことと思われます。

先を行きます。川越のど真ん中を進み、本町通りは左折、新河岸川を渡って、ここから先は児玉往還です。このまま、"河越" を通り越して勝呂に向かいます。

すぐろといへる所にいたりて名に聞し薄など尋てよめる。
旅ならぬ袖もやつれて武藏野やすくろの薄霜に朽にき

道興歌碑

道興は何故勝呂を訪れたのか。門光坊という本山修験寺院があったようですので、本山修験の組織化、強化の為、ということだと思います。

薄野原ではなく田園地帯です、今は

"河越" に戻ります。

河越といへる所にいたり。最勝院といふ山伏の所に一两夜やどりて。
かきりあれはけふ分つくす武藏のの境もしるき河越の里

この所に常樂寺といへる時宗の道場侍る。日中の勤聽聞のためにまかりける道に。大井川といへる所にて。
打渡す大井河原の水上に山やあらしの名をやとすらん

まず最初の歌、"河越" との記述ですが、この場所はどこかという点ですが、ヒントは現存する常楽寺ですね。

常楽寺

"この所に常樂寺といへる時宗の道場侍る" ですから、常楽寺に極近い所ということになります。

また、"境もしるき河越の里" ですが、常楽寺の直ぐ東は入間川で、高麗郡と入間郡の郡境ですから、境を知った川 = 入間川、を越えた里ということになり、常楽寺から入間川を渡った所、と、思われます。

川越橋から入間川上流方向を望む。富士山も見えます。道興も見たはず。

次に、常楽寺から入間川を渡った所にある八咫神社を見てみます。

八咫神社

風土記によれば、

"八口社、上中下寺山村の鎮守にて、本地は千手観音なり、村内本山修験林蔵院持"

"林蔵院本山修験西戸山本坊の配下なり、本尊不動を安す"

とありますから、この本山修験林蔵院が、道興が訪れた最勝院の可能性があるわけですが、続いて埼玉の神社によれば、

"現存する棟札写しのうちの一枚は永禄一二年1569のもので「奉修造八口大明神祈念所」とあり、別当財泉院と書かれているが、現社殿の棟札である天保三年のものには、別当が「八口山林蔵院長久寺」と記されており、祀職に変遷があったことをうかがわせる。"

とあります。この、林蔵院と財泉院について、こちらのブログでは、

財泉院が後に林蔵院となったとあり、且つ、財泉院八口坊が、八口山最勝寺を開いたということですから、最勝寺(院?) → 財泉院 → 林蔵院ということになり、河越とは八咫神社がある所であることが分かります。

林蔵院跡 = 最勝院跡

また、常楽寺ですが、院号を三芳野院といい、この三芳野は、伊勢物語第十段、

むかし、男、武蔵の国までまどひ歩きけり。さてその国にある女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。すむ所なむ入間の郡、みよしのの里なりける。
みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね、返し、
わが方によると鳴くなるみよしののたのむの雁をいつか忘れむ
となむ。人の国にても、なほかかることなむやまざりける。

に登場する、"みのしのの里" がここだということから来ているとのことで、またしても、道興の、在原業平聖地巡礼の側面もあったようですね。

此さとに月よしといへる武士の侍り。いさゝか連歌などたしなみけるとなん。雪の發を所望し侍りければ。言つかはしける。
庭の雪月よしとみる光かな

さて烏頭坂でも言及した月よしという武士についてですが、風土記、今成村の項で、

"月吉屋敷跡、村の巽の方なり、今は陸田となる、その広さ二段四畝許、𢌞国雑記を閲るに・・・" とあって、このことを言っていると思われます。

入間郡誌によれば、"村の東南方水車付近の地にして今は小名を月吉と称し、其小橋を月吉橋と名けたり。" ということですから月越小学校南東部分から新河岸川に架かる月吉橋近辺、経ヶ島弁才天の辺りと行った所でしょうか。

月吉橋から月吉集落を望む
経ヶ島弁才天、室町期の創建、時の地頭(月よし?)が法華経を小石に書写し塚を築いた。経ヶ島の由来。

さて、

歴史的農業環境閲覧システムより、赤点が常楽寺です。

電子国土地図の十字マークをご覧ください。

霞ヶ関駅

ですね。迅速測図には、霞ヶ関という地名はありません。

はい、どういうことかと言いますと、霞ヶ関村が誕生したのが明治22年1889で、迅速測図はその前ですから、記載が無いわけです。

しかしこの霞ヶ関という地名は何の縁も無いのかというとそうではありません。

風土記によれば、

"柏原村、霞が関、西の方上廣瀬村界の大路一條かゝれり、往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、こゝに霞ヶ關と稱する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ關のありけるよし、其處も今は定かならず、古人の和歌二首、土人口碑に傳えふるもの左にのす、

春たつや霞か關をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら
徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の關も春そくれゆく”

まず、霞ヶ関、は、東国を表す歌枕であるということです。都の人が、噂に聞く東国を、ある種の憧れを持って歌に詠む時、使う言葉ですね。堀兼の井、も、その一つです。だから、風土記で、名所、として紹介されているのです。もっとも、霞ヶ関、は、幾つか候補地があって、その一つが、多摩市関戸で、道興も訪れていますね。そういった意味では、道興は、東国の歌枕を巡ったとも言えます。

次に霞ヶ関の場所ですが、今で言う奥州道交差点の坂を上り切った所が霞が関があった所のようです。

坂下にある影隠地蔵
信濃坂、坂下から坂上
信濃坂を上り切った所

そして、この信濃坂は鎌倉街道上道ですが、狭山市駅の方に行くと、霞野坂という交差点があります。

霞野坂

この、"霞" ですが、修験の世界では、支配地域を指します。

道興が拠点とした十玉ヶ坊は入間郡、訪問した笹井観音堂は高麗郡が、"霞" でした。そして、入間郡と高麗郡の郡境は入間川でしたから、この霞ヶ関という地名は、十玉ヶ坊と笹井観音堂の支配地域の境界を指していたのではないでしょうか。


如何でしたでしょうか。

道興は、

近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵一回目、下総、上総、安房、相模、下野、常陸、下総、武蔵二回目、相模、伊豆、相模、武蔵三回目、甲斐、上野、下野、陸奥

と、東国巡礼していますが、今回は、三回目、最後の武蔵国巡礼を取り上げました。

道興東国巡礼の目的は、本山修験、熊野修験の組織化、強化でしたが、意外にも、道興憧れの人、在原業平の聖地巡礼や歌枕訪問と言った、観光としての側面も大いにあったことが伺え、親しみを覚えました。

さて次回はどうしましょうか。

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