
道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜半沢、霞ノ関
廻国雑記によれば、道興は、
近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵一回目、下総、上総、安房、相模、下野、常陸、下総、武蔵二回目、相模、伊豆、相模、武蔵三回目、甲斐、上野、下野、陸奥
と、東国を巡礼しました。
武蔵国の二回目と三回目、そして、二回目の武蔵国の後の相模国は、既にexploreしています。
今回は三回目の武蔵国入りの前の相模国をexploreしますが、前回、前々回と、鞠子川(酒匂川), 剣沢(曽我), 山彦山(六本松峠), 蓑笠の森(蓑笠神社), 八幡(平塚八幡宮), ふたつ橋、大山寺、霊山・日向寺、小野、熊野堂をexploreしましたから、本日はその続きです。
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厚木駅まで輪行、廻国雑記に記載はありませんが、早川の五社神社には本地堂があり軍荼利夜叉明王を祀っていました。
別当は、聖護院直末本山修験早川山軍荼利寺実像院ですから、同じ敷地にあったものと思われます。

日本武尊伝承もある古社です。

1313年、三井の門徒浄覚大徳が社殿を再建とあります。三井の門徒、とは本山修験総本山円城寺(三井寺)の門徒ということですから、これが本山修験との関わりのスタートではないでしょうか。
直末ということですから、廻国雑記に記載は無いものの、道興も寄ったものと思われます。
先を行きます、次は町田市の半沢です。幾つかルートは考えられますが、恐らくこのルートでしょう。
目久尻川と相模川の間の台地を北に向かって真直に行く道です。
この道筋には、







等、錚々たる古社、古寺が並ぶ古道中の古道でした。古代東海道でもあります。廻国雑記に記載はありませんが、道興もこの道を歩き、古社、古寺に寄って、お参りしたものと思われます。
さて、磯部に到着しました。この磯部には、磯部八幡宮があります。

鎌倉の山伏、祐圓(延文二年1337九月二十二日没)が創建した神社です。
別当は小田原玉瀧坊配下、佛像院磯幡山神宮寺ということですから、総合すると、本山修験山伏祐圓が、仏像院を開くのと同時に磯部八幡宮も創建したのかもしれません。
廻国雑記に記載は無いものの、道興も寄ったものと思われます。
府中通り大山道で半沢に向かいます。半沢の手前、木曽の覚円坊です。

本山修験、聖護院直末、二十七先達の一でした。
覚円坊は、元々、康平六年1063, 園城寺第31代長吏覺圓僧正が、園城寺の金堂の裏に開いたお寺でした。
円城寺は再三戦に巻き込まれていましたので、ご本尊の聖観音像を守る為、鈴鹿山麓に移していましたが、やがて木曽の義仲庵に移され、安置されていたのですが、ここ町田市の木曽が木曽義仲の縁地ということで、武州の法印、伝燈阿闍梨が、正平六年/観応二年1351, ここに移し、木曽覚円坊開山となりました。その後、多摩郡の本山修験霞頭となっています。
霞頭ですから、廻国雑記に記載は無いものの、道興も寄ったものと思われます。

しかし道興は、ここにではなく、少し先の半沢に宿泊しています。
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半沢といへる所にやどりて、発句、
水なかば、沢べをわくや、うす氷
では道興は半沢村のどこに宿泊したのか。風土記を見てみます。
まずは白山権現です。
字名半沢にあり、社領五石一斗の御朱印を賜う。社上に覆屋を設く。本地聖観音木の立像にて長さ八寸許。社前に鳥居を立つ。当社の勧請はいと古きことにて語りも伝えずと云う。承久の頃、小山田二郎重義が修理を加えしことは前に出せしところなり。その余りの来由詳らかならず。別当大蔵院、村の南にあり、図師山と号す、本山修験なり、承久の頃、本社修理のことを企てしという。時は古き寺院なることを知るべし。
白山権現は、半沢村の中の字半沢にあったということになります。
その字半沢ですが、風土記で、"北の方なり" と、半沢村の中の北に位置していることが分かります。

一方、大蔵院があった場所ですが、風土記の釜田坂(鎌田坂)の記述で、
村の南に寄りたる所にて大蔵院の前に当たれる坂なり
ということですので、大蔵院は村の南にあるのであって、字半沢にはありません。

ですので、道興が半沢村のどこに宿泊したかといえば、廻国雑記の、"半沢" を、字半沢と解すならば白山権現で、半沢村とするならば、大蔵院ということになります。一般に、寺院には宿泊設備がありますが、神社は無いので、大蔵院でしょうね。
それから、大蔵院は承久の頃(1219 - 1222)に既に存在していたわけですから、覚円坊よりも古いということになります。霞頭ではなかったようですが、むしろ、大蔵院がこの地域の中心的存在で、だから、道興もこちらに宿泊したのかもしれません。
先を行きます、小野路を抜け、

古道は跡形も無くなっている多摩ニュータウンを抜けて、霞の関です。

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名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、
吾妻路の、霞の関に、としこえは、我も都に、立ちぞかへらむ
都にと、いそぐ我をば、よもとめじ、霞の関も、春を待つらむ
名に聞きし、とあります通り、霞の関は歌枕です。14世紀編纂の新拾遺和歌集に載る、
徒らに、名をのみとめて、あづま路の、霞の関も、春ぞくれぬる
等が詠われています。道興の歌もこの歌のオマージュですかね。
また、二回目の武蔵国入りの後の相模国は大磯で、そして今回の三回目の武蔵国入りの前の相模国では剣沢、山彦山で、道興は、曽我物語にも触れていますが、ここ霞の関は、曽我物語にも登場する地なのです。
道興は、わざわざ寄り道した訳ではありませんが、名所を巡ったわけです。
またここにある熊野神社ですが、道興が通った1486年の3年後の延徳元年1489九月九日に勧請されていますが、これは、道興の影響が大きかったのではないでしょうか。

この先、多摩川を渡って府中宿へと出て、鎌倉街道を行けば恋ヶ窪です。これで、二回目の武蔵国入り後の相模国、三回目の武蔵国入りの前の相模国は完了です。
如何でしたでしょうか。
二回目の武蔵国入り後の相模国は海沿いで、三回目の武蔵国入りの前の相模国は山でしたね。そういった意味で言うと、考えられた道筋だったのではないでしょうか。