日本のシルクロード、座間丘陵、田名原面
日本のシルクロードシリーズ、これまで、
と、来ました。
今回は、相模原台地、中津台地に続く、相模川3部作の最終回、座間丘陵・田名原面です。
■◇◆□
海老名まで輪行、、、経堂から乗りましたが何かいつもと違う異様な盛り上がり。輪行バッグを抱えつつ人混みをかき分け、下りホームで急行を待っていたら昨年引退したはずのVSEが!!これか!!
海老名に着きまして、厚木の渡しまで西進し、上郷の集落に入りますが、754年開創の総持院、664年に国家祭礼を執り行った有鹿神社は今回のテーマではないのでやり過ごし、下今泉の集落に入りまして、浅間大神です。
ここは調べても特段養蚕に関わる情報が出てくるわけではないのですが、
浅間神社の御祭神、木花咲耶姫は織物業守護神
北口本宮富士浅間神社では、御祭神木花咲耶姫は養蚕の神としていてお札も出していた。
富士御師が蚕影山信仰を取り込んで富士信仰の拡大を図る活動をしていた。
というように、浅間神社と養蚕は関わりがあることから、もしかしたらここも、ということで今回訪問することにしました。
782年創建(北口本宮冨士浅間神社の社殿建立の788年より早い!!!), ということですが、前年の781年に富士山が噴火しています。それがきっかけだったのでしょう。
現地からはさぞ富士山がきれいに見えるのだろうと思って訪問しましたが、この有様。
しかし、帰宅して地図を見たところ、ここは、富士山と大山を結んだラインの延長線上に位置していました。
781年の富士山噴火の際は、大山の向こうに噴煙だけ見えた、そういうことですね。
ご存じの方も多いと思いますが、富士山の木花咲耶姫は大山の大山祇命とは父娘の親子関係です。しっかりと、デザインされ、この位置に創建されたのだと思います。
北口本宮冨士浅間神社創建より早い、レイライン上に存在、と、何か、意味があるとしか思えません。
北口本宮冨士浅間神社の仮宮だったとか?!噴火直後は、北口本宮冨士浅間神社がある場所では、災害が落ち着くまで、社殿建立は難しかったでしょうから。
さて、トンボのマークでお馴染みの泉橋酒造(いつも美味しく頂いてます。)との交差点を左折ですがここにお不動さんが乗る大山道道標がありました。
はい、この道は大山道で、迅速測図から推測すると、下今泉・座間入谷・座間谷戸山公園・相模原台地・上鶴間・原町田・以降鎌倉道で府中まで、あるいは下今泉・四谷・座間・新戸・勝坂・以降府中通り大山道、という、府中通り大山道のバリエーションルートなのではないかと思います。
四谷の集落を経由して、、、
新田宿に入ります。ここに諏訪神社があり、境内社に蚕影社があります。
1866年創建です。横浜が開港して7年ですから、全ての生糸は横浜に向かっている時期。厚木街道で運ばれたんだと思います。
おっと、ありましたここに、富士講碑。やはり、この辺りは富士御師の活動範囲で、富士講が盛んだったのではないでしょうか。
山梨県大月市猿橋では、蚕影社の隣に富士講碑が多く建てられていると言います。蚕が寒さの為、霜害でやられ、その供養の為にです。こうして、富士信仰が蚕影信仰と合わさっていったものと見られているそうですから、ここもそうかもしれません。
いやぁ、富士山、浅間神社、これは今回のキーワードになりそうです。
先を行きましょう、欽明天皇の御代(509~571)創建、有鹿神社と神争いした鈴鹿明神社は今回のテーマではないのでやり過ごし、鈴鹿明神社の裏の龍源水ホタルの公園を訪れます。
ここにある水車は、養蚕盛んなりし頃、製糸用の水を川や水路から汲み上げるのに使われていたことを偲び、設置されました。
河岸段丘崖ですから、湧水が豊富で、その湧水を頼りに水車を運用していたんですね。国分寺崖線でも同じことがありました。
座間丘陵に上がり、テーマ外なので行基開山の星谷寺をやり過ごし、今度は相模原台地に上がり、折角上ったのに嘉兵衛坂で目久尻川の谷に下り、台の坂で三度上り、桑畑の真ん中を通って、折角上ったのに目久尻川の支流の谷に下り、三屋の坂で四度目上って山王神社です。
実は今回の裏テーマでした、このup & downは。
ここには境内社に蚕影神社があります。
迅速測図(1880~1886)には記載が無く、今昔マップ(1896~1909)にはありますから、この間の創建ということになります。
どんど焼きも行われるということです。養蚕、蚕影神社の影響ですね。
戻りますがその前に、富士山公園に寄ります。ここに、嘗て、浅間神社がありました。はい、富士信仰、浅間神社の濃度が濃いですね、どうもこの辺りは。
戻りまして相模原台地から座間丘陵へ下り、座間宿を北上し、座間神社です。ここの境内社に、蚕神社があります。
昭和3年、合祀ではなくここに創建されました。祭神は保食命ですから、蚕影神社とは別物ですね。日本書紀では月読命に切られ死んだ後に死体から、頭頂からは牛馬、額に粟、まゆの上に蚕、目のなかに稗、腹のなかに稲、陰部には麦と大豆が生じてたということから、養蚕守護神となっています。
また、富士山公園にあった浅間様もここにあります。
先を行きましょう、座間丘陵から相模川氾濫原に下りまして新戸集落の白乃大髪稲荷神社です。
白乃大髪というのはオシラサマですよね、どう考えても。それに稲荷ですから、鉄板とも言える組み合わせなんですが、調べても養蚕守護神としての記事は見つかりません。
先を行きましょう、お隣の日枝神社です。
ここも、白乃大髪稲荷神社同様、調べても養蚕守護神としての記事は見つかりませんが、唯一、細い糸、としては、ここでは、雹祭が行われるのです。雹は桑の大敵ですから、雹除けを行っていた日枝神社は養蚕守護神だったのでしょう。雹除けは、白山姫神社でも行われていました。
先を行きましょう、再び座間丘陵に上がりまして勝源寺です。
ここの青面金剛がこの辺りの養蚕守護神として広く信仰を集めたとのことです。初申の日に開かれたお祭りはたいそう賑やかだったそうです。
青面金剛といえば庚申信仰ですが、庚申信仰が養蚕守護神とされていた例は、個人的には1例しかありません。
何故、勝源寺で、青面金剛が養蚕守護神となったのか。
既述のように、北口本宮富士浅間神社では、御祭神木花咲耶姫は養蚕の神としていてお札も出していました。
孝安天皇92年(BC301), それまで雲や霧に隠れていた富士山が、忽然とその姿を現したのですが、この年が庚申の年だったことから、北口本宮冨士浅間神社では、申年、申の日を縁起としていて、養蚕守護神としての側面から、養蚕が始まる、本格化する初申の日が例祭日となっています。
と、いうことは庚申の日と重なるわけですね。
既述の富士御師の活躍で、北口本宮富士浅間神社の初申祭も伝わってきていたでしょう。庚申と言えば青面金剛ですから、そうやって、いつしか、勝源寺の青面金剛は、養蚕守護神になっていったのだと思います。
いやぁ、富士信仰の濃度、濃いですねぇ。
勝坂の集落から相模川氾濫原に下って磯部の集落に入りまして、磯部八幡宮です。
ここには神仏習合時代の名残、不動堂があり、お不動さんが祀られています。
この不動堂の中には、繭額が飾られ、このお不動さんが、養蚕守護神としても崇められていたことが分かります。
相模川氾濫原から河岸段丘崖を上がって(8%勾配との標識アリ)田名原面の下溝の集落に入りまして、、、
榎稲荷神社です。ここには、稲荷神社と蚕影神社があります。
元々は、麻溝産業組合の乾燥所にあったそうです。乾燥所の隣は製糸工場でした。昭和19年の火災で社殿消失し、昭和26年に今の場所に再建されました。
乾燥所に製糸工場に蚕影神社ですから、揃い踏みですね。
直ぐ先に下溝八幡宮です。ここにもお不動さんが祀られています。磯部八幡宮同様、養蚕守護神としても崇められていたのだと思われます。
先を行きましょう、当麻の浅間神社です。
この神社が創建されたのは正徳3年(1713)で、その6年前、宝永4年(1707)に富士山が大噴火してますので、それが創建の理由でしょう。時代は大きく異なるものの、下今泉の浅間大神とキッカケは同じですね。
先を行きましょう、福田家の長屋門です。福田家は養蚕の指導も行っていました。
福田家は後北条氏の家臣でこの辺りを実質領してましたから、そういったこともあるんでしょうが、養蚕が如何に大きな産業であったか、を、物語る立派な門です。
先を行きましょう、本日のラスト上り!河岸段丘崖を上がって相模原台地の大山祇神社です。
この神社には雹塚があります。新戸の日枝神社、白山姫神社同様、養蚕痕跡ですね。
先を行きましょう、再び田名原面に下り上溝の集落に入ります。清水家の長屋門です。
福田家同様、養蚕農家でした。
ここも立派ですね。
直ぐ先に安楽寺です。ここには門前に富士阿弥陀来迎像があり、富士信仰の痕跡です。
直ぐ近くには上溝仙元神社もあって、田名原面は富士信仰が一際濃いですね。
調べましたらそれもそのはず、上溝は、富士講の一つ、山臣講の本拠地で、上溝仙元神社はその山臣講による創建です。安楽寺の富士阿弥陀来迎像も恐らくそうでしょう。
先を行きましょう、相模原台地の時に巡った上溝ですが、今回のexploreで改めて認識した浅間神社はノーマークでした。久保の浅間神社です。
当麻の浅間神社同様、宝永4年(1707)の富士山噴火した際に、火山灰を集めて塚を作り、浅間神社を祀ったとも言い伝えられています。
□◆◇■
如何でしたでしょうか。
いやいや、また新たな発見でした。富士信仰と養蚕の関係です。キーになるのは下今泉の浅間大神ですね。もし、本当に782年の創建なら、781年の富士山大噴火後、北口本宮冨士浅間神社の社殿建立までの間の仮宮だったのではないでしょうか。そんな気がします。そのご神徳がベースとなって、富士御師の活動が活発で、元々養蚕が盛んでしたから、養蚕守護神として、富士信仰が広がっていったのではないか、と、思います。
最後に、これで相模川三部作が終わるんですが、思い返してみればここは相模国高座郡。高座、はい、渡来人のエリアですね。
武蔵野台地もそうでしたが、つくづく、時の為政者は、渡来人を厳しい土地に住まわせたんだなと気付かされます。
また、養蚕が盛んな理由の一つがこの渡来人です。