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日本のシルクロード、金剛寺、七沢
日本のシルクロードシリーズ、これまで、
と、来て、そして前回は、
と、来ましたが、今回は、厚木市飯山の金剛寺と厚木市七沢の鐘ヶ嶽浅間神社です。
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金剛寺の隣りにある飯山観音は、坂東33観音の第6番札所です。
前回、テーマではないから、ということでスルーした星の谷観音は第8番。
折角なんで、坂東33観音巡礼道で星の谷観音から飯山観音、金剛寺まで行きましょう。
相武台前駅まで輪行、座間谷戸山公園の伝説の丘に観音堂を、
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現在星谷寺がある所にその別当寺を、奈良時代、行基が開いたという伝承があります。古寺ですね。
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この星の谷観音から飯山観音への道筋には、飯山村の安西金左衛門が造立した道標があるようです。
それを頼りに行きましょう。
1つ目の道標は、相模川の下依知の渡し場付近、廣徳寺と下依知八幡神社の間にあります。
と、いうことは、星の谷観音がある座間丘陵から西へ相模川の氾濫原に下り、四谷の集落から四谷の渡しへ。相模川を渡河し下依知へと行ったのでしょう。
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相模川を渡河し、そしてこれが、飯山村安西金左衛門が造立した道標です。
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畑の中の当時のままの道を行き、、、
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R129を越え、金田神社です。
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掲示板によれば、仁治丑二年(1241), 本間重連の創立とのこと。
この金田神社の直ぐ西隣には建徳寺があり、ここも、本間重連の開基となります。
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また、R246を挟んだ南隣にも妙純寺があって、ここも本間重連の開基です。
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更に、建徳寺西の牛久保用水は、本間重連が開発を指示しました。
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この本間重連ですが、横山党の出なんです。和田合戦が1213年ですから、生き残ったんですね。
しかし領地は佐渡とここ。佐渡は言わずもがな。ここも、中津台地編で言ったように、養蚕が盛んになるということは不毛の地ということですから、苦労したんでしょうね。
また妙純寺ですが、1271年に、日蓮が佐渡に流された時、一時、ここに逗留したそうです。
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ここは本間重連の屋敷で、主君北条宣時は佐渡守護で、本間重連はその守護代でしたから、日蓮の佐渡流しを担当しました。本間重連は、これをキッカケに、日蓮宗に帰依しました。
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ということでこの辺りは、北条宣時に仕えた鎌倉武士、本間重連の領地で、よって、坂東33観音霊場が開かれた鎌倉期には既に開かれていたエリアで、巡礼者も、恐らくは、金田神社、建徳寺、妙純寺を参拝し、牛久保用水の上水で喉を潤したものと思われます。
さて、迅速測図によると、牛久保用水がある所が中津川の渡し場だったようです。中津川を渡河し、妻田の集落に入ります。そのまま西進。
反田の交差点に、安西さんの道標がありました。
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道は間違ってないようです。
そのまま西進すると妻田薬師です。
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ここはスゴイですね。
本尊は聖徳太子作、左右の日光月光は運慶作、天平寶字五年ですから761年、良辨がここに詣でて7日7晩経典を読んだ所、東の池に青い蓮華の白い根が満ちて、まるで、白い布を敷き詰めたように見えたという奇跡が起こったことから白根山と山号を定めた、ということですから。
聖徳太子、運慶、良弁と、スーパースター揃い踏みでした。
坂東33観音霊場巡礼者も参拝したはずですね。
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先を行きましょう、ここからは甲州道・津久井通り大山道と重なります。青蓮寺の手前で左折、十二天橋で荻野川を渡河し、R412を越えて直ぐの交差点に、安西さんの道標がありました。
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先を行きましょう、八王子通り・府中通り・津久井通り大山道に合流です。
ここに富士塚がありました。前回座間丘陵・田名原面編で言いましたが、富士信仰は養蚕信仰と結び付いています。養蚕痕跡ですね。
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また、訪問済ですが、ここには807年弘法大師開基伝承がある千光寺があります。
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また、ここには、同じく弘法大師が勧請したという龍田神社もあります。
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しかし、龍田神社というのは個人的に初めてですね。
名寺社・古寺社ですから、巡礼の人たちも参拝したでしょう。
千光寺の直ぐ西隣には、親鸞が訪れた弘徳寺があります。
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親鸞の旧蹟ということで子善鸞がここに心光院を弟子浄念と共に開きました。1278年の善鸞死後は浄念に附属されましたが、浄念も死んだ後は、下総国の弘徳寺の兼務となりました。
この弘徳寺、親鸞が開いた寺で、親鸞の弟子信楽が住職でした。親鸞が越後国に流された時、相馬義清が担当し、その際、親鸞に帰依して、信楽となったのです。
先程は本間重連が日蓮でしたね。今回は相馬義清が親鸞です。
いなはや、行基に日蓮、聖徳太子に良弁、弘法大師に親鸞ですよ。スゴイなこの道。
巡礼道に復帰して、安西さんの道標です。
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先を行きまして、光福寺です。
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天台宗だった開山の隆寛律師が浄土宗に改宗し、1227年、奥州へ流罪となったが、担当した大江広元四男、毛利季光が自領であるここ毛利庄に一時逗留させた際、隆寛律師の教えに帰依し、律師を匿い、教念寺として開創し直したと言います。
今度は毛利季光が浄土宗に帰依ですよ!いやはや
はい、この先はいよいよ飯山観音の核心エリアです。
まずは725年、行基勧請の龍蔵神社です。
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祭神は級長津彦命、級長戸辺命という風の神様ですが、白龍伝説や名前からして、水神様ですね。
白龍伝説:
日照りが続き、農民たちは麓の小鮎川で雨乞いをした後、涸れることのない白山山頂にある白山池の水を掻い出しで使っていました。すると、池に住む飯山観音の化身白龍が、水が無くなったと躍り出て、相模平野に雨を降らせ、その年は豊作となりました。
龍蔵神社の直ぐ北に、今回のメインテーマの一つ、807年、弘法大師が開基の金剛寺です。飯山観音の別当寺でした。
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あれ?!そうか!そういうことですね。千光寺と同じです。千光寺も807年弘法大師開基、境内に龍田神社、小鮎川の畔。金剛寺と龍蔵神社、小鮎川の関係と同じです。
千光寺、龍田神社は、金剛寺、龍蔵神社の一の鳥居、あるいは里宮的な位置付けだったのではないでしょうか。金剛寺、龍蔵神社はもう山の中ですが、千光寺、龍田神社はその麓ですから。
さて、そもそも何故、今回のメインテーマの一つが金剛寺なのかというと、吾妻鏡の1182年の条に、金剛寺の僧侶が、郷司近藤能成を、山狩りや養蚕を金剛寺に課していたとして訴えたという記載があり、これが厚木の養蚕の記録初出だったからです。
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はい、では核心エリアのラスト、飯山観音です。
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龍蔵神社と同じく、725年に行基が開創、そして、千光寺、金剛寺と同じく、807年に弘法大師がここを真言宗の教場とした、という古寺、名寺なんですが、何かこう、飯山観音、金剛寺、龍蔵神社は3つで1つというか、歴史が混じり合ってるのかもしれないですね。
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さぁでは次です。物寄峠を越えていきますがここに安西さんの道標があります。これで6つ目ですね。コンプリート。
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峠を越えたら上古沢の集落です。ここから七沢に抜ける峠がその名も順礼峠です。
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順礼峠を越えた先が、宮ヶ瀬ルート津久井通り大山道で、ここには、鐘ヶ嶽浅間神社を中心とした養蚕信仰がありました。
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正に今回のルートは海老名下今泉の浅間大神とこの浅間神社とを結ぶルートで、富士講による富士信仰と養蚕信仰を結び付けた信仰が流れていったルートなのではないでしょうか。
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■◇◆□
如何でしたでしょうか。
厚木は八王子と並んで養蚕が盛んでしたが、養蚕という言葉の初見である金剛寺は、いつか行かねば、と、思っていたのです。
そしたら偶然見つけた坂東33観音霊場巡礼道、折角だからこの道を行くことにしたら、この道は、レイラインで結ばれた、富士山、大山、鐘ヶ嶽、浅間大神(海老名下今泉)という、富士浅間を養蚕の守護神とする信仰が流れたルートでした。
また、この道は、行基、日蓮、良弁、弘法大師、親鸞が通った道でした。書きませんでしたが、1569年には信玄も通ってました。
良いサイクリングでした。