小田原通り大山道
今回、大山そのものの上りは除いて最もキツかったです。
さて、大山道シリーズ、これまで、
と、来て、前回、
と、来ましたが、今回は、相模川から酒匂川の間の東海道から大山に向かう大山道の最終回、小田原通り大山道をexploreします。
小田原通り大山道は、小田原を出て池上、井細田、多古、飯泉と、ここまでは六本松通り大山道と同じ道筋で、飯泉の飯泉観音勝福寺で六本松通り大山道と分かれ(東へ), そのままほぼ真北へ北上し、成田、西大友、下大井、上大井と酒匂川の谷を行き、ここから曽我丘陵へと上り、山田、篠窪、渋沢と行って渋沢丘陵を越え、矢倉沢往還に至る道筋で、矢倉沢往還を越えてからは蓑毛通り大山道となり、西田原、東田原、小蓑毛、蓑毛と行く道筋です。小蓑毛から蓑毛までは六本松通り大山道で行ってますので、今回は割愛します。
小田原まで輪行、経堂4:57の始発で行こうと出発しましたが、鈍行なので、だったら梅ヶ丘からと思い直し方向転換。駅前で輪行バッグに詰め込んでホームへ行くと5:14?まだ4:45位だよ!?あ!経堂始発というのがあるのね!ということで約30分待ち呆けです。漸く乗ったら先週同様、下北で朝まで飲んだ若者達で席は埋まってます。ま、これも旅です。
てな感じで漸く小田原に到着。既述のように六本松通り大山道で一度走ってますので東海道は割愛です。小田原駅東口から、栄町一丁目を東へ、銀座通り交差点を北へ、栄町郵便局前丁字路を東へ、広小路丁字路を北へ、東海道線・新幹線を潜り、寺町の二又は西側を選び、池上村の鎮守、稲荷神社を訪ねます。
風土記では、"村の東界に甲州道係る道幅二間" とあって、小田原通り大山道は、甲州道との認識ですね。
小田原通り大山道に戻って山王川を渡ると井細田村で、鎮守は八幡神社となります。
風土記では、"甲州道村の南北を貫けり幅二間" とあって、池上村同様、小田原通り大山道は甲州道との認識です。
先を行き、酒匂川渡河手前は多古村で、鎮守は白山神社です。
風土記では、"甲州道村の中程を貫く幅二間当村人馬の継立を成せり南は小田原宿へ一里北は足柄上郡塚原村へ一里、大山道一つ甲州道より東分かる幅九尺" とあって、飯泉橋で酒匂川を渡る小田原通り大山道はしっかりと大山道として記述されていて、飯泉橋へと東へ折れずにそのまま真っ直ぐ行く道が甲州道だと分かります。
酒匂川を渡ったら飯泉村で、
風土記に鎮守の記載は無いものの、やはり、何と言ってもここは武相三十三観音霊場第25番札所飯泉観音勝福寺ですね。
小田原・六本松通り大山道は勝福寺の仁王門に向かって真っ直ぐ行きます。突き当たって東が六本松通り大山道、西へ行って直ぐ北、が、小田原通り大山道です。
風土記では、"小田原大山順礼の三路係る各幅九尺、小田原道は北方より入る、大山順礼の二道は東方より来たり村内にて三路合わせて一道となる" とあって、小田原通り大山道は小田原道との記述、六本松通り大山道は大山道との記述です。巡礼道は今でも巡礼道と表される、国府津へ真東に進む道です。
北上するとやがて成田村です。鎮守は字毎ですね。ということで鎮守訪問は割愛です。
風土記では、"小田原道南北に貫き富士道は東より北に達す道幅各九尺" とあって、小田原道は今来てこれから行く道、富士道は、成田西の交差点で小田原通り大山道に十字で交わる道でしょう。
先を行きましょう、西大友村です。
風土記では、"小田原道幅七尺及び酒匂国府津道幅九尺係れり当村より下の矢作村辺に至るまで総じて府中筋と唱う" とあって、小田原道は今来てこれから行く小田原通り大山道ですね。一方、酒匂国府津道は、西大友公民館と西大友薬局の間の道祖神がある十字路から東へと行く道だと思われます。矢作、国府津へと繋がってますから。
さてここ西大友の地名ですが、面白い話があります。
盛泰寺というお寺、口碑によれば、開基は何と!天智天皇の第一皇子、大友皇子であるとのこと。言わずと知れた、672年の壬申の乱で天武天皇に敗れた後、大友皇子は東国に逃がれ、この地に至り、この寺を開いたというのです。矢倉沢往還が近いからですかね、こういった伝承が残るのは。矢倉沢往還が律令に遡る古道であるとの証拠とも言えますね。尚、こういった伝承は、千葉の君津など、幾つかあるようです。
先を行きましょう、下大井村です。
風土記では、"小田原道村北より通ず幅七尺スノコ橋の下にて東南に通ずる岐路あり酒匂道という幅九尺。共に足柄下郡西大友村に入る" とあって、小田原道は今来てこれから行く道、酒匂道は、下大井公民館から酒匂堰を渡って東南に進み国府津へと行く道でしょう。
先を行きましょう、上大井村です。
風土記では、"小田原道村北より南に達すまた東方よりこの道に合する一路あり曽我道なり幅共に九尺" とあって、小田原道は今来た道、曽我道は、三島神社のある丁字路に東から来る道で、正にこれから行く道です。東へ行くと曽我丘陵の山裾を行く道となります。尚、この道は、下大井村で酒匂道と言っていた道と上曽我村で接続します。
曽我道と別れ、御殿場線を越えると曽我丘陵?渋沢丘陵?に上ります。
ビオトピアの真ん中を行く道が小田原通り大山道ですが、私道になっていて通れませんし、そもそもどこが入口かも分かりませんでした。上記写真の山道が終わった所がそこだったんですが。
無意識に川沿いまで迂回してました。天神社の辺りまで来るともう山田村です。
山田村鎮守天神社の写真は取り忘れたようです。お参りはしたんですが。
風土記では、"小田原道北方より東南に達す幅二間" とありますから小田原道は今来てこれから行く道ですね。
東名を越えて渋沢丘陵を上ります。この辺りは篠窪村です。風土記では、"北方より南方に亘りて小田原道係れり幅二間大住郡渋沢村より入る村南字榎本にて西方に岐路を分かつ矢倉沢道なり幅九尺" とあって、今来てこれから行く道が小田原道、富士見塚で接続し西へ行く道が矢倉沢往還です。
さぁ、ここから富士見塚までが本日のメインイベントでした。結論から言うと藪に負けて途中撤退でした。以下、写真集です。
ということで迂回です。東名沿いに東へ行くと(予想外にオギノパン前の上り並みに上りました。)乗馬クラブの手前で山に上る一本実線古道がありました。
上り切って篠窪貯水池からはこの眺め。こっちもキツかったなぁ。
ここを下ると漸く富士見塚です。
峠を越えると渋沢村です。風土記では、"往来二條一は小田原道一は?道共に幅一丈係れり" とあって、今来てこれから行く道が小田原道ですね。もう一つの方は、読めないんですが恐らく下り切った室川沿いの道でしょう。東へ行くと曽屋、西に行くと千村に至ります。
ここから、大住郡と足柄上郡の郡境まで、地図に無い道が続きます。郡境尾根に行くわけですから上りも。
尾根の絶景を楽しんだ後は止まる暇が無い下り。渋沢丘陵から秦野盆地へと下って行くと渋沢村鎮守渋沢神社です。
室川を渡り渋沢駅前で矢倉沢往還と交差、そこに大山道道標があります。
その先、水無川に向かう道は日立と公園で道筋が変えられていますが、道標は恐らく位置を変えて残っていました。
葛葉川を渡ると西田原村です。
風土記では、"冨士道係る幅二間" とあって、今来てこれから行く道は、今度は富士道との表記ですね。前回の曽屋村と同じです。今来た渋沢丘陵を行く平安期の矢倉沢往還は、富士道との表記でした。
直ぐに東田原村で鎮守は東田原神社です。
風土記では、"村の中程に富士大山への通路幅二間あり又平塚宿への往来係れり村の中程にて冨士道に合す幅九尺" とあって、今来てこれから行く道は富士道です。平塚道は秦野市東公民館辺りで東南へと行く道でしょう。
道標を二つこなして、
坂本通り大山道から来る蓑毛通り大山道に合流、本日はここまで。
如何でしたでしょうか。
冒頭書きましたが、大山そのものへの上りを除くと最もキツかったです。撤退して上り直したということもありますが、渋沢丘陵、侮れませんね!
しかしここは本当に絶景だし、何と言うか時が止まってるというか、5年半振りの訪問でしたが、相変わらず良い所です。