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大山道シリーズ番外編、曽我道も中村党の道

大山道シリーズ番外編、これまで、

と、来ました。

波多野道は、岡崎義実・真田与一親子が行き来した道、矢名薬師・金目観音・平塚八幡宮巡礼の道、そして、高句麗渡来人の大磯から秦野への移動の道でした。

梅沢道は、東海道大磯宿と小田原宿の間の宿梅沢への道であると同時に、中村党宗家中村荘司宗平、三男土屋三郎宗遠、四男二宮四郎友平、五男堺五郎頼平といった、中村党が行き来した道でした。波多野道と梅沢道は土屋で接続していますから、岡崎四郎義実・真田与一親子もここに加わります。岡崎四郎義実の妻は中村荘司宗平の娘桂御前、岡崎四郎義実の次男、つまり真田与一の弟は土屋三郎宗遠に養子に出て嫡男になっています。

そして今回は、曽我道です。

足柄上郡の記載では、

"一は曾我道と云、上大井村小田原道より別れ、上曾我村より足柄下郡曾我岸村に達す、行程二十六町、幅二間"

足柄下郡では、

"一は曾我道なり、東海道國府津村より北に折、末は曾我岸村に至て足柄上郡上曾我村に達す、道程一里十町許、道幅酒匂道に同じ"

ですから、上大井村から国府津村の道筋ということになります。


新松田まで輪行、北口を出て矢倉沢往還を東へ。籠場橋で川音川を渡り、

籠場橋からふと振り返れば富士山。曽我丘陵の西ですから、もう邪魔するものはありません。富士山が近いですね。

神奈川県道72号線を行きます。旧道を選びながら進み、

そこかしこにある仙元大菩薩の塔、そりゃそうでしょう、富士山が近いですから。
嘗ての県道クラスの大道、今は神奈川県道72号線の裏道でこんな感じの粋な黒塀がある風情良い道

程無く上大井村です。

ここまで、風土記には記述の無い名も無き道ですが、両実線の県道クラスの道で、迅速測図では、"至国府津村" とありますから、国府津道と呼んでも良いでしょう。

歴史的農業環境閲覧システムより、南北を貫く両実線の県道クラスの道が今来た道です。ちょうど、地図の継ぎ目にかかってしまっていて文字が一部消えてますが、恐らく、至国府津村" と書いてあるんでしょう。

国府津道は上大井村で曽我道にぶつかります。

曽我道は、小田原通り大山道の上大井村で登場してましたね。

"小田原道村北より南に達す、また東方よりこの道に合する一路あり曽我道なり幅共に九尺"
(今来た道は言及されてませんね。)

さて、ぶつかったら曽我道を東へ。瀬戸建具店と曽我郵便局の間を北上するのが小田原通り大山道ですが、曽我道はそのまま東進します。川を渡り、御殿場線を越え、神奈川県道72号線を越えると曽我丘陵の山裾の道となります。

さぁ、曽我、と言えば言わずもがな。誰もが知ってる曽我兄弟です。

曽我の里を巡りましょう。

まずは曽我の里総鎮守宗我神社

曽我ではなく、宗我

境内掲示によれば、明治28年の神社上書にある、1028年に、奈良県橿原市曽我町の式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が、その職を息子に譲り東国に赴き、宗我都比古命とその祖先武内宿祢を祀ったとのことですが、それより古い風土記によれば、小澤明神社と呼ばれていて、祭神はそのものズバリ小澤明神です。

小澤明神とは?

ということですが、恐らくはこの地の神様なんだと思います。本地仏は薬師さんで、今は直ぐ東にある法輪寺に祀られています。

法輪寺
薬師堂

当時は神仏習合ですから、小澤明神社には薬師の仏像が祀られ、里人はそれを拝んでいたんでしょう。

また、相殿の左が応神天皇で曽我兄弟の継父曾我太郎祐信が鶴岡八幡宮より勧請したということです。

出ましたね、曽我兄弟との関わりが。ということは曽我太郎祐信がこの地を領する前から鎮座していたということになります。1028年というのがそれなんでしょうか。

尚、法輪寺には、曽我太郎祐信の位牌もあるとのことです。

その東隣には大光院があり、御本尊は曽我太郎祐信守本尊の不動明王とのことです。

本山修験宗諸法山実相寺大光院

そして次は城前寺です。曽我兄弟が仇討ち後、叔父の宇佐美禅師が、その遺骨を携えここに葬ったのが始まりです。

今朝、国府津道を南下し上大井村で曽我道に入りましたが、そこは、大きな家は皆宇佐美の表札でした。関係あるんでしょうか。

曽我城の前にあったから城前寺

ここには曽我兄弟と、継父曾我太郎祐信と母満江御前の墓があります。

右の二基が曾我太郎祐信と満江御前の、左の二基が曽我兄弟の墓。また、墓が乗っている盛土は曽我城の土塁とのことです。
そしてこれは城前寺からの眺望、足柄平野と箱根の山、そして富士山

城前寺の直ぐ裏には曽我城がありました。

曽我城址

曽我兄弟の母満江御前の墓は少し先にもう1基ありました。

曽我兄弟の母満江御前の墓

この満江御前、諸説あるんですが、一説によると、中村荘司宗平の娘とのこと。となると、曽我兄弟は中村荘司宗平の孫ということになりますね。曽我氏と中村党が繋がりました。

と、いうことで、曽我兄弟も中村党一派ですから、中村党の道だった梅沢道と、曽我丘陵で隔てられた曽我道も繋がってるはずです。迅速測図を見てみましょう。

中村党と曽我兄弟との曽我丘陵越え交流ルート、中村党一派の史跡は赤にしました。左下が曽我の里、右下は二宮四郎友平、右上は土屋三郎宗遠、上は堺五郎頼平、真中の縦に並ぶ2つは中村荘司宗平の居館です。
  • 曽我の里からピンク→赤は既走の六本松通り大山道ですが、この行先は五所八幡宮で中村荘司宗平の居館跡です。中村一族の墓もありました。

    • 五所八幡宮HPでは、"中村荘司平宗平が守護神として崇敬し、以後三男土屋三郎、娘婿曽我太郎両家が祭典の供物を納めたという。文明元年(1469)正月火災にかかり同13年再建御遷宮。その後小田原北条氏を始め武家方の崇敬を集め、神宝として曽我五郎時致寄進の弓、脇差一腰、江戸幕府老中の稲葉丹後守正勝寄進の太刀一振、甲冑一領他多数有りと伝わる" とあり、やはり、曽我氏は中村党一派であり、行き来もしてたんですね。

  • その一つ北の古怒田を通るルートも五所八幡宮に向かいます。

  • 南のルートは途中で2つに分かれますが、北の方は沼代から明沢経由でもう1つの中村荘司宗平の居館・墓に、

  • 南の方は川匂神社を経由して二宮四郎友平の居館に向かいます。この道は鎌倉に向かう道でもあったでしょう。

今回は、二宮四郎友平居館に向かう、六本松峠から沼代を経由して川匂神社に行くルートと、その後は、梅沢道を北上して、明沢の中村荘司宗平居館から沼代に戻るルートを行きたいと思います。

六本松峠に向かう激坂巻貝、勿論乗車ではなく押し
でもなんとか押し切ったらこの眺望なんですよ、相模湾、足柄平野、箱根の山、富士山が一望です。
そして六本松峠です。正面の白飛びしてしまってる道が六本松通り大山道、今回はチャリの向きに行き沼代に向かいます。
沼代地蔵堂手前の大山の眺望、手前の尾根は六本松通り大山道
沼代の集落を抜けた辺りの、谷戸越しの台山がある尾根の眺望

ここに、沼代桜の馬場があります。

沼代桜の馬場、中村荘司宗平が白髭明神に相撲を、五所八幡宮と沼代の鎮守王子神社に競馬を奉納した際の馬場
その王子神社、馬場の手前にあります

この王子神社、風土記では1449年の創建とありますが、それでは中村荘司宗平の競馬奉納と時代が合いません。

一方、東麓に鎮座する白髭神社の、鎌倉期に記された白髭記にも記載があることから、創建は鎌倉時代に遡ることが出来、やはり、競馬奉納の伝承は確からしいですね。

山を下りると羽根尾通り大山道にぶつかります。

前回行っているので今回は行きませんが、このまま東へ行くと、中村川を下原橋で渡って、川匂の湯場を経由して川匂神社の参道を横切り、二宮町民運動場に残る京鎌倉街道を行き、馬頭観音の丁字路を南下し、東海道に出たら等覚院の前を通り、梅沢のY字路を左に行き、東海道線を越え、二宮の駅からは吾妻山の東山裾を北上すると前回行った知足寺で、ここに二宮四郎友平の居館があったという話を前回しましたが、

知足寺、2023/8撮影

二宮四郎友平の妻二宮御前は曽我兄弟の異母姉なんです。なので、仇討の後、曽我兄弟の墓を建てています。

左の二基が曽我兄弟の墓、右は二宮四郎友平のと二宮御前の墓

長くなりましたが、知足寺には行かず羽根尾通り大山道を北上します。

北に行くと中村氏が相撲を奉納した白髭神社ですが、今回は素通りします。

中村荘司宗平の居館跡を横目に、小竹の集落を左折し、明沢から沼代に戻ります。

80m位まで上ってきました。小舟方面の眺望。
屋根の上に屋根のお蚕さんを営んでいたであろう古い家がありました。
その先、北側が開けてこの大山の眺望

この先一上りして沼代に到着しました。

さてここから先どうするか。六本松峠までまた上る足は残ってません。でも来た道を戻るのも面白くありません。

迅速測図を見ると、田島に抜ける村道もありました。それを行きます。

この道は曽我の里からは外れます。むしろ、国府津、その先の小田原に向かう道でしょうね。南西に下る道で、南の眺望が良かったです。

相模湾
相模湾、その2
ピークまで上がると良く見えました。
結構下っての眺望、相模湾と真鶴半島

田島からは巡礼街道で小田原に行き、輪行で帰りました。


如何でしたでしょうか。

曽我兄弟で有名な曽我氏は中村党一派であり、曽我丘陵を越えて、行き来していましたね。

しかし中村荘司宗平の子供ではなく、曽我太郎祐信は娘婿という立場です。

この辺りは、もっと言えばこの辺りを西へ越えて土肥も中村党の領地ですから、ここだけポツンと何故曽我氏の領地だったのか?!

祐信の祐の字は伊東氏の通字です。

中村荘司宗平の娘満江御前と一緒になったから、満江御前の化粧領を譲り受け、曽我の里に入ったから曽我氏と名乗った、と、考えるのが最もシックリ来るように思いますが、どうなんでしょうか。


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