東国の出雲族、荒川〜氷川女體神社まで
このシリーズ、初回、
2回目
3回目
と来ました。
奥多摩町史によれば、出雲族は初め多摩川下流域、私的には世田谷に住み着き世田谷三氷川を創建、後、多摩川を遡って奥多摩に奥氷川神社を創建し、武蔵国成立後、狭山丘陵に移住、中氷川神社を創建、柳瀬川沿いに東進し、大宮氷川神社を創建したとのことです。
これまで、世田谷、奥多摩、狭山丘陵、狭山丘陵〜荒川までをexploreしてきました。
今回が最終回です。荒川から氷川女体神社までをexploreします。
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何度か走ってます、鎌倉街道阿佐ヶ谷ルートで豊島園まで。豊島園からはほぼ真北に進む古道を探して、赤塚で荒川を渡り、渡った後は荒川左岸の堤道を行きます。
暫く行き鎌倉街道羽根倉道に乗ります。
この辺りは当時の雰囲気が残ってますね。いやぁ、来て良かった。癒やされました。
程無く、島根氷川神社です。
社伝によれば、811年に宮廷に使えていた足立太郎秀盛が、后を連れ出して関東に下向し、ここ足立の地までやってきて、京ではこれ一大事と軍勢を差し向け追って来たが、秀盛はこれをことごとく討ち滅ぼし、ここに鎮守として氷川神社を勧請したということです。
また、風土記によれば、
"・・・土俗姉宮と唱ふ、是大宮町氷川明神の姉宮なるゆへなちといえど、其故を詳にせず・・・"
と、あって、更に、島根村の六反の地が大宮氷川神社に寄進されていたという古文書もあって、大宮氷川神社との結び付きの強さが伺えます。
先を行きましょう、、、
、、、いよいよ、大宮氷川神社です。
掲示によれば、第五代孝昭天皇の御宇三年(BC473)四月末の日の創立、日本武尊は東蝦征伐の際に祈願、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社をもっぱら奉崇ということですが、本ブログでは奥多摩町史を採用し、700年以降、武蔵国成立、府中に国府が作られた後、奥多摩から狭山丘陵、柳瀬川沿いを東進し、その後、この地で祀られたとしています。
とにもかくにも、現代の東国の出雲族の聖地中の聖地、the top of topsですね。
先を行きましょう、中山神社です。
先程の大宮氷川神社とこの中山神社、そして、この後訪問する氷川女体神社は、一直線に並び、それだけでなく、この中山神社からは、夏至の日、太陽は大宮氷川神社に沈み、冬至の日、太陽は氷川女體神社から上るという位置関係にあります。
今回ルート設定するに当たり、中山神社が他二社とは異なる台地に在ることに気付き、何故なのか、見沼を渡河しなければならないではないか、と、思っていたんですが、これが理由だったんですね。
また、主祭神が、大宮氷川神社が父素戔嗚命、氷川女體神社が母奇稲田姫命で、ここ中山神社が、子大国主大神という設定になっていて、この三社は関係が深く、あるいは三社で一社という関係であって、中間に位置するここ中山神社は、中氷川神社とも呼ばれていたようです。
いやぁ、実に面白いですね。
先を行きましょう、件の氷川女體神社です。
社伝によれば、崇神帝之御勧請、出雲国大社同躰、とあるとのこと。
また先程中山神社でも触れましたが、神社明細帳控には、当社と大宮氷川神社、中山神社の三社を合わせ氷川神社として奉斎したというように載っているそうです。
大宮氷川神社、中山神社、氷川女體神社の何れも、見沼に面する岬の突端に建立されています。
件の一直線もそうですが、水、太陽の信仰なんでしょう。
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如何でしたでしょうか。
氷川神社はその分布に特徴がある、というのは知られたことで、主に、荒川流域に分布していて、加えて、柳瀬川流域、奥多摩、世田谷、渋谷周辺、これは古川周辺ということでしょう、です。
荒川流域は大宮氷川神社の威光を受けての分祀が多いのではないでしょうか。
西暦1000年より前の古社は、今回のルート沿いに限られる、主に、ですが、かもしれません。
今回実走してみて思うのは、特に、出雲色が濃厚なのは、狭山丘陵でした。
あそこは何か特別ですね。
何も無い荒野の中の独立峰ですから、少なくともランドマークにはなりますし、水がある、柳瀬川の水源も!!!、ので、人が生きていけます。
いや、ロマンでした。