大山道シリーズ番外編、丹沢御林道
大山道シリーズ番外編、これまで、
と、来ました。
それぞれ興味深い道でした。
波多野道は、岡崎義実・真田与一親子が行き来した道、矢名薬師・金目観音・平塚八幡宮巡礼の道、そして、高句麗渡来人の大磯から秦野への移動の道でした。
梅沢道は、東海道大磯宿と小田原宿の間の宿梅沢への道であると同時に、中村党宗家中村荘司宗平、三男土屋三郎宗遠、四男二宮四郎友平、五男堺五郎頼平といった、中村党が行き来した道でした。波多野道と梅沢道は土屋で接続していますから、岡崎四郎義実・真田与一親子もここに加わります。岡崎四郎義実の妻は中村荘司宗平の娘桂御前、岡崎四郎義実の次男、つまり真田与一の弟は土屋三郎宗遠に養子に出て嫡男になっています。
曽我道は、曽我太郎祐信は中村荘司宗平の娘婿で、となると曽我兄弟は孫ですから中村党一派で、曽我道と梅沢道は曽我丘陵を越える3つの道で繋がっていました。眺望が素晴らしかったですね。
そして直近の巡見道は、これまた考えさせられる、大変興味深い道でした。天明の大飢饉で相模国を揺るがした、愛甲郡、津久井県で発生した土平治騒動のような騒動が、天保の大飢饉に際して、再発しないかどうかの巡見でした。
そして今回は、丹沢御林道です。
1590年の家康江戸入府の時から、丹沢は、幕府の直轄林となり、1624年には、御林に指定されました。
早速、同年には、田所助二郎に命じて、江戸花水橋の普請に、煤ヶ谷村の木を伐採しています。
この時、田所助二郎は、煤ヶ谷村、宮ヶ瀬村、横野村、菩提村に、村方四人による山方管理を命じています。
その後、丹沢御林見回り役は、
延宝三年(1675)は宮ヶ瀬・煤ヶ谷・寺山・横野・菩提
享保元年(1716)は宮ヶ瀬・煤ヶ谷・寺山
寛政六年(1794)は宮ヶ瀬・煤ヶ谷・寺山・横野
文久二年(1862)は宮ヶ瀬・煤ヶ谷・寺山・横野・七沢
と、変化していきました。
また、風土記(1841)で丹沢御林道が登場するのは、
愛甲郡の街道の記述
一は丹澤山道なり、厚木村より飯山等を經て煤ヶ谷村より西方山中に入道程四里餘道幅九尺或は二間各村の街道の記述
戸室村
丹沢御林道北寄りを通ず幅二間飯山村
大山幅九尺、丹沢幅同上、公用の往来には人馬を煤ケ谷村に送れり、道程ニ里余りの二路係る
各村の御林の記述
宮ヶ瀬村
煤ヶ谷村と同じく丹澤山御林の警護を勤むるを以て・・・煤ヶ谷村
慶安4 (1651)年9月村民ら、由井正雪、丸橋忠弥らが余類を搦捕し(渥美次郎右衛門、芝原亦左衛門、同七郎兵衛および僕従甚三郎、7月29日夜、丹沢山御林見守道より来たり。)村民の家に宿せしを、御代官坪井次右衛門に注進し、8月朔日(8/1)搦捕しとなり(捕まった4人の墓碑が村内正住寺にあり)賞として米300俵を賜い、かつ鉄砲42挺を許可せられ、山林に猟する事を余業とす。
当村は丹澤山御林の警護を承るを以て人馬の課役を除かれ、かつ月俸を賜う(当村および宮ヶ瀬、大住郡寺山、横野等の4村組合てこれを勤む。月俸は合て一口半なり)。
寺山村
当村横野宮ヶ瀬煤ヶ谷等の四村古より丹澤山御林山守を命ぜられ日々見巡りをなす横野村
当村は丹澤山御林見廻り役を勤る故・・・七沢村
天正二年(1574)北條氏の命により井樓に用ゆべき材木を伐出し当国須賀浦まで運到す
です。
そして、小鮎郵便局の少し西に、厚木市設置の丹沢御林の碑があります。
以上のことと、迅速測図、今昔マップから、丹沢御林道を推定、exploreしてきました。
本厚木まで輪行、北口を出て、厚木町、厚木神社に向かいます。
この辺りが小田急開通前の厚木村の中心地で、厚木村は、厚木村に集約している矢倉沢往還、八王子道、平塚道、甲州道、藤沢道、そして丹沢御林道の人馬継立を担当していました。
厚木神社は、線路向こうの宝安寺と並んで、舟運で栄えた豪商達の支援が多かった神社です。丹沢御林で伐採した木材は小鮎川、相模川の舟運を使って運ばれたでしょうから、巡見した幕府の役人達も訪れたのではないでしょうか。
さぁ、丹沢御林道に入っていきます。
元町、松枝の交差点を過ぎ、R129を横切って、吾妻団地前は左折、前回の巡見道も横切って、ゴルフ場で道は消失していますので迂回し、神奈川県道63号線の駒ケ原・古松台の交差点から古道復活です。
嘗ての小鮎村中心地に至るとここに、厚木市設置の丹沢御林道の碑があります。
その後、丹沢御林道は、物寄峠を越えていきます。
ここは以前、日本のシルクロードシリーズ金剛寺、七沢編で走りました。
金剛寺、飯山観音は訪問済なのでスルーし、
小鮎川沿いを上流へと進みます。グルっと回って飯山観音の山の西側に出て、煤ヶ谷村に入ります。
(ここの部分、このルートと、順礼峠を行くルートの2つが考えられますが、順礼峠の場合、風土記の愛甲郡街道の記述: 一は丹澤山道なり、厚木村より飯山等を經て煤ヶ谷村より西方山中に入道程四里餘道幅九尺或は二間、という言い方はしないでしょう。順礼峠を越えたら煤ヶ谷ではなく七沢なので、厚木村より飯山、七沢等を經て煤ヶ谷村、という言い方になるはずです。)
船沢、寺鐘、宮野、別所と進み、ここに、八幡神社があります。
その後、左折し、正住寺の前の道に入り、、、
ここには、風土記の煤ヶ谷村の説明にあった、渥美次郎右衛門、芝原亦左衛門、同七郎兵衛および僕従甚三郎の墓があります。
物見峠までが丹沢御林道です。
物見峠までは無理ですが、少しだけ行ってみましょう。
この物見峠、丹沢御林見守り役が、丹沢の山を見回るルートで、この峠から四方を監視していたということです。
ここは煤ヶ谷村ですから、煤ヶ谷村の山守は確実にここを通っていたんでしょう。
また、上記古地図にも吹き出しを加筆しましたが、物見峠から札掛に道が通じています。
この札掛ですが、延宝三年(1675)に見守り役に加わり、明治初期まで続いた寺山村の鎮守、鹿島神社が、丹沢山の守護として、丹沢山中のここに分祠を設立し、1232年より毎年、鹿島神社の焼印木札を奉納していたそうです。
その後、分祠がある地区を、"札掛" と呼ぶようになり、寺山村が丹沢御林見守り役になった延宝三年(1675)以降は、巡視の証として、この行為をしていたとのこと。
また、既述のように、風土記の煤ヶ谷の記述では、
当村は丹澤山御林の警護を承るを以て人馬の課役を除かれ、かつ月俸を賜う(当村および宮ヶ瀬、大住郡寺山、横野等の4村組合てこれを勤む。月俸は合て一口半なり)。
とありますから、物見峠と札掛を中心に、煤ヶ谷、寺山、宮ヶ瀬の村人が、この道を通って山守を勤めていた、というように想定出来ます。
今昔マップを見ると、煤ヶ谷から物見峠、札掛。そして、寺山、横野、菩提から札掛を経由して物見峠、このルートは概ね表ヤビツです、宮ヶ瀬から物見峠、こちらは概ね裏ヤビツ、という道が通じていました。
しかし、最後に加わった七沢については、古地図を見る限り、どうも、物見峠、札掛に繋がる道が無いようです。
これは、
既述のように、七沢は北條の時代から材木の伐出を担っていた
ここ七沢は元々扇ヶ谷上杉氏の領地だったが、北条氏の相模進出に伴い、北条氏の領地となった。風土記にある天正二年(1574)は既にその状態であったということ。
煤ヶ谷と七沢は江戸時代何度か境界争いをしていた
煤ヶ谷は小鮎川水系、七沢は玉川水系
七沢が丹沢御林見回り役になったのは最後で、煤ヶ谷との境界争いもあったので、その物見峠・札掛をハブとしたコミュニティに入りづらかった
のではないか、と、想像しています。
七沢から山に入る場合、今昔マップを見ると、北から、
浅間神社ルートは村境争いをした煤ヶ谷との正にその村境道に繋がるのでこれは無し
広沢寺ルートは、広沢寺から山の神、不動尻と行って大山に至ります。
七沢温泉ルートは、亀石、七曲峠、大釜弁財天、浄発願寺北から不動尻で広沢寺ルートと合流します。
七沢神社ルートは、亀石で七沢温泉ルートに合流します。
ということで、結局不動尻から大山に至るルートだろうということで、今回は、広沢寺ルートを行きたいと思います。
如何でしたでしょうか。
飯山、煤ヶ谷、七沢は再訪でしたが、丹沢御林道の道標の発見は嬉しかったですね。
また、広沢寺温泉ルートの上りも楽しかったです。広沢寺を過ぎてからは激坂で、新太平橋を渡ってからは、私のインナーロー40×28Tではとてもとても無理で押しでした。