六本松通り大山道
大山道シリーズ、これまで、第一弾の柏尾通り大山道
第二弾の田村通り大山道
と、来ました。
共に、東からのアプローチだったわけですが、今回は西からで、六本松通り大山道です。
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小田原まで輪行、東口を出て本町まで。ここから東に東海道を行き、青物町が東海道と六本松通り大山道との辻です。
ここから北上しJRの線路を越え、寺町を右へ。
山王川を渡河して道なりに北上し、飯泉橋で酒匂川を渡河、
飯泉観音飯泉山勝福寺に到着です。
あの道鏡が770年に下野国に流された際、ここから少し離れた千代の里に千葉山弓削寺を開き、それが元になったお寺です。
830年にこの地に移され、勝福寺と名を変えました。本尊は道鏡が孝謙上皇から賜った、鑑真が唐から持ってきた十一面観音とのことです。
頼朝の時代には、仇討ち祈願の為、曽我兄弟が日参したという伝承があります。
先を行きましょう、巡礼街道を東に、ギザギザと北上し、鴨宮中学校入口は東へ。酒匂堰手前にあるのが春光院です。
1198年、浄土宗二世聖光の建立と伝わるものの、伝承に過ぎず、しかしながら、1478年に太田道灌が寄進した灯籠は現存しており、この時には既に開かれていたということになります。
ここから曽我の梅林に向かいますが、途中の八幡神社には、大山阿夫利神社があります。
曽我の梅林に入ります。六本松峠に向かって上りです。
峠を下って、
中村川を渡河すると五所八幡宮です。
1157年、比叡山の僧義圓が東国行脚の際、元宮の雑色村子ノ神社に一夜の宿を借り、その夜、霊夢で白鳩に導かれ現在の地に至り、現われた童子、これは誉田別命になるわけですが、その霊言に従って勧進したとのこと。
また、五所、の由来は、宇佐、石清水、鶴岡、壷井、に次いで5番目に当たるから、ということです。
創建当時は源頼朝祈願所六十一社の1つとされていました。
先を行きましょう、藤沢川を渡河した所に大山道道標があります。
ここから一本松峠に向かって上ります。
峠を越え、
下り、
神奈川県道71号線秦野二宮線も越えると、簑笠神社です。
ここは面白い。
天照大神の怒りに触れ素戔嗚尊が天下った正にその場所が大山であり、大山は雨降山だから毎日雨で、嫌になった素戔嗚尊は蓑と笠を身に着け大山を下り、この社に一夜の宿を求めた。翌朝は雨が上がったので、素戔嗚尊は蓑と笠を忘れ、以降、蓑笠神社と呼ばれるようになったというのです。
その後素戔嗚尊は、平塚市吉沢の八剱神社を経て、大磯の高麗神社へと向かったという伝説が残されているとのこと。
また、大磯の高句麗渡来人が、高麗郡に移住する際、土屋、当地井ノ口、大井、松田と西へ進む集団もあって、それらは土着し後に金子氏となり、厚木、伊勢原、秦野と進み土着したのが秦氏という説明もあります。
更に、1486年、聖護院道興が訪れていて、回国雑記に載っています。
先を行きましょう、北上し、
秦野に至ります。大磯の高句麗渡来人秦氏のルートですね。
秦野で矢倉沢往還に合流し、
金目川の辺で別れ北上して、蓑毛に至ります。
大山阿夫利神社の鳥居を過ぎると、
大日堂があります。
ここもスゴイ。
縁起によれば742年、聖武天皇勅願所として大日堂を建立したとり、翌年には行基や良弁が五智如来を造立とあります。
また、相模の国府と国分寺、によれば、相模の国分寺は最初海老名にあったが、奈良時代の平地仏教が平安時代の山岳仏教に変わると、878年頃に、海老名から蓑毛に移ったと推論されます。
と、言うことで国分寺だった可能性があるんです。スゴイでしょ?!
大山阿夫利神社の鳥居を過ぎましたから勿論ここから大山に行くルートもあるわけですが今日のゴールはここ。
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如何でしたか。いやいや、に、しても眺望が素晴らしかったです、このルートは。
アップダウンも多く楽しめました。
また、このルートは、素戔嗚命、高句麗渡来人、道教、義圓、頼朝、太田道灌、道興が通った由緒正しき古道でした。