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大山道シリーズ番外編、鎌倉道、後編(平塚〜江ノ島)

前編はこちら

花水川を花水橋で渡ったら平塚です。

旧東海道(近世東海道)に入ったら、1つ目の信号の手前で右に入ります。

まずは教善寺ですが、ここから、近世東海道と東海道線の間にある東西の道沿いには、この教善寺、阿弥陀寺、宝善院と鎌倉期に遡れる寺が並んでいます。

教善寺、時宗二祖他阿真教(1319年寂)が開山、大山道シリーズ 八王子通り大山道で訪問した當麻寺を開いた人です。
阿弥陀寺、かつて当地には、曽我十郎祐成の子河津三郎信之、後の了源が1227年に創建した浄土真宗寺院阿弥陀寺があったといいます。
宝善院、三度目の訪問です。鎌倉八幡宮寺へ下向した東寺の学問僧により、建久年間(1190 - 1199)に創建しました。

この道は、"興(こし)道" と呼ばれていました。興はお神輿の興です。お神輿が通る道、はい、そうです。国府祭の際、各神社のお神輿がこの道を通るのです。今は区画整理してしまいましたが、嘗ては馬入橋まで一直線に続いていました。

この辺りは少し雰囲気残ってますね

相模川を馬入橋で渡って、ここから今宿に至る道筋が鎌倉道との伝承がある中島の日枝神社です。

中島日枝神社

小出川を渡るのは、今は湘東橋ですが嘗ての道筋からはズレています。が、僅かながらですが残っていました。

僅かに残る当時のままの道

そして程無く旧相模川橋脚です。

稲毛三郎重成が妻を弔う為に架橋した橋の落成式の帰り、頼朝は落馬し、その後、死亡します。

その直ぐ東には神明神社があり、ここに、あの、安倍晴明が訪れています。

神明神社

この後、鎌倉道は、鶴嶺八幡宮の参道を横切るんですが、その辺りで頼朝が落馬したという伝承があります。

今そこは歴史公園になっていて、馬頭観音が祀られていました。

参道入口には、地元の里人が、頼朝を落馬させた義経一行の霊を鎮める為に建てた弁慶塚があります。

弁慶塚

そして、鶴嶺八幡宮です。

公式サイトによれば、"長元三年九月(1030年)、源頼義は下総の乱を鎮定するため懐島郷(現地)に至り、源家の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をしました(別に宇佐八幡宮勧請説もあります)。 永承六年(1051年)前九年の役(安倍一族の反乱)が起こり、陸奥守となった頼義の応援に向かった長子、源義家が懐島郷に入り戦勝祈願をしました。 前九年の役が終わった康平六年(1063年)、頼義は鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である「元八幡」を建立し、当八幡宮はその旧社であることから「本社八幡宮」といわれました。"

鶴嶺八幡宮は遷座されています。その旧地です。

本社丘、鶴嶺八幡宮の旧地、後三年の役後、源八幡太郎義家が、今の鶴嶺八幡宮に遷座した。遷座後も、大切に祀られていたが、天保年間に本社宮の地に遷座された。
その本社宮

この先、茅ヶ崎市役所の辺りは区画整理で鎌倉道は消失しています。迂回して相模線も越え、八王子神社です。

1333年、新田義貞鎌倉攻めの際当社に寄り勝利を祈願し、1335年の上洛の際にも寄り社殿を改修したとの伝承があります。

小和田に入りますと熊野神社

平安末期の創建と伝わります。

その後、近世東海道を渡り、東海道線を辻堂駅西口で越えると、ここにも頼朝落馬推定地が。

辻堂の頼朝落馬推定地

そして、嘗ての辻堂の中心地、辻堂元町には頼朝が開いた宝生寺があります。

宝生寺
同じ敷地内の、宝生寺が開かれる前、1159年に創建された諏訪神社

その後、引地川を渡河して鵠沼に入り、本鵠沼、鵠沼と行って

本鵠沼の、原の辻供養塔と庚申塔

境川も渡って片瀬に入ります。ここの鎮守様です。

上諏訪と、
下諏訪です。共に、723年の創建です。

そして本日のゴール、江の島です。

テーマは鎌倉道ですが、もうここがゴールで良いでしょう。ここからの鎌倉道は皆ご存知でしょうから。

如何でしたでしょうか。

まず土屋から大磯への山越えは、逆向きではありますが2回目ですが、良い道ですね。

幅一間で、風景も良く、当時の雰囲気を残していて、特に今回の土屋一族の鎌倉道のグラベル尾根道は、非常に楽しめました。

そして、山を越えてからですが、実は、東海道は中世以前も近世と同じ道筋だと思っていました。

調べてみたら、走ってみたらですね、確かに、鎌倉期に遡れる寺社が道沿いに点在していて、伝承も残っていて、いやいやそうだったのか、と思いました。

そして、茅ヶ崎・辻堂は頼朝濃度が濃かったですね。

また、相模川を渡った先、茅ヶ崎の辺りは、浜之郷、や、松林など、そもそも茅ヶ崎もそうですが、海を連想させる地名です。そういった地形的な要因もありそうです。

鎌倉を出て、本日のルートを行き、その先は曽我兄弟の鎌倉道で、曽我丘陵を越え、矢倉沢往還から駿州に入っていきました。その後、頼朝の時代になり、箱根権現への参拝が頻繁になると、湯坂道ルートが使われるようになりますが、矢倉沢往還ルートも、完全廃止ということではなく、両方が使われていたようです。

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