女は丸刈りにして犯し、男は野に放ち狩る
日本に差別なんてありませんよ、島国で統一民族なのですから笑という人は多いと思います。
ゆとり世代の私も差別とか過去のものだと思っていたし、それについてしっかり考えるのには時間がかかった。
その時が来たのはオーストラリアにワーホリでヒャッホーしに行った時。
私は日本人の女の子と海に向かうため電車に乗っていました。
それを見て楽しそうでムカついたのか、白人のジジイが「外国語で話すならてめえの国に帰れ」と吐き捨てながら到着駅で下車してゆく。
何が起きたのか二人して呆気にとられていると今度は一人のアボリジニーがやってきて、閉まるドアを押さえて叫びまくって発車を妨げた。
そいつの家族が強烈な体臭と共に電車に乗りこんだら、お次は周りの人間に対して「何見てやがる」と喚き出す。
こういうことが日常的に起こりまくっていて、ついには日本人が刺されたとかいう事件にまで発展する。
だからサメが出た時みたいに、特に女の子は一人にならないようにと警戒し出した時期を覚えてる。
そんな酷い奴らにも言い分があって、当事者であるアボリジニールーツの同い年のヤツと話してわかったことがたくさんあった。
それはかつて入植してきた白人たちが彼らに対して行ったことから話は始まる。
先住民なんて狩りの対象でしかなかったのがオーストラリアの歴史である。
その歴史の反省からか、現在では慰謝料としてわずかな金が支給されているのだが、その金で酒を買ってしまう。
元々酒なんてなかった彼らは極端に耐性がなくて、多くの人はアル中状態というのが現状なのだとか。
だからって騒いで物盗ったり刺したりするのはダメじゃんと思っていたけど、そんな彼らを見つめる白人たちの目は嫌悪に満ちていた。
差別対象を見る目はいつでも冷たくて、その顔には見覚えがあった。
その時に気づいたのが"日本でも割と差別は溢れかえってること"であった。
逆に何故その時まで無自覚でいられたのかは、それは私が男として生まれたことが大きいだろう。
そうした無自覚の差別はミルフィーユのように多層に織り成されて、構造の中に組み込まれている。
その昔はカースト制度に似た、士農工商とそれにプラスして穢多非人というのがあって、棲み分けという言葉で取り繕いながら堂々と差別をしていた。
それは今でも続いているし、人はそれがないと自分の価値がわからないのかもしれない。
安心するために差別して、自分を守るためにまた差別するのかも。