希望こそが未来への鍵である
ベトナムはハノイのVincom Center for Contemporary Art (VCCA)はモールの奥にある広いスペースでとてもイケてる空間でした。
それでもなんだか寂しく思えたのは空っぽにしか見えなかったからです。
モールの半分はデカいマンションになっているけど半分も人は住んでいないし、モールの中もショップは見たことがある店ばかり。
きっと世界中がショッピングモールになって、同じものを着て、同じものを食べて、同じような価値観になってゆくのかとその時に肌で感じました。
そんな風にして幸せの形をお店や権威に任せておいて、手に入れたものを見せつけたり、札束を追いかける幸せも悪くないかもしれない。
ギャラリーも展示なんかより、その場でのセルフィーにこそ関心があり、自分の持っているガラスの板の向こう側にこそ、彼らの本来の世界は広がっているだろう。
プロジェクターに映し出されるフリーダカーロやルネマグリッドは一定の時間で切り替わり、それが何かを考えさせる暇も与えず最初の画面に逆戻りする。
その先に待つ空っぽなものを私たちは知っている。
彼らも知ってるし、わかっていて今を享受しているのだろう。
バラカとサンサーラという映画を見た時にも同じような気持ちになりました。
それは絶望的な虚無の中でも、ただただ生きているだけで素晴らしいのだということです。
壮大な森羅万象の一部である私たちの営みはお互いに協調し合って、この世界を作り出している。
その一部を我々は個人のメガネで垣間見ているに過ぎないのだが、それを全てと認識する。
一見するとすごく空虚でなんの意味があるのかわからない、それでも長い時間軸で捉えなおすと何か意味が生まれるのかもしれない。
いずれにせよパンドラの箱の底には希望があったように、絶望感の最後にはキラキラ光る何かが待っているはずだ。
帰国してたくさん歩いた日にこんなことを考えていました。
帰ってきた家は電気も水道もガスも止まった状態で、呼気が白くなる部屋の中で毛布に包まってやり過ごす。
ロウソクの明かりだけボーッと眺め、やがて火が消えそうになると次のロウソクに火を移すのだけれど、その時に昔聞いた"死神"を思い出す。
ほら、消えるよと言われてるみたいだ。
こんな風に命の炎を次へ次へと継いでゆくだけなのか、その燃え方に何か意味を見出すのか。
答えは燃え尽きた時にわかるはずだと信じて、暗闇を照らしてゆく。