見出し画像

Sen wo Hiku ~ 線を引く

授業参観に行った。

小5の娘の学校は、全校で20名ほどの小学校、1・2年、3・4年、5・6年の複式学級で、ワンフロアに3教室が並んでる。コロナ禍ということもあり、廊下側の窓がすべて取り払われ、今日は廊下から教室を覗くようになっている。どの教室も目に入るわけだ。

両脇の1・2年生と5・6年生は、英語の授業を受けていた。当然「リピート・アフター・ミー」で、あっちからこっちから声が飛び交っている。間に挟まる3・4年生は算数だ。計算?ノートに何かを書いている。

参観するのは、保護者そして地域の人たち。児童の数より、参観の数のほうが多い。複式の場合、英語は二学年同じことをするけれど、算数は、同じ教室で学年ごとにやることが違う。真ん中のクラス、

集中力がいるな、これ。

その上、今日は廊下に目がたくさん、しかも両脇からは 音おと音。

たいへんだな~こどもたちも。

なんて思っていたら、心の声が出ちゃってたみたい・・隣にいたお母さんが「たいへんだよね~」と返してくれた。

そのクラスでは筆算の線を定規で引くことになっているらしい。えらく慎重に必死に線を引いている。宿題をする時は、答えよりも線を引くことに子どもがこだわっているとのこと。

カチッ。

おっと、スイッチが入ったぞ。

筆算の線をきれいに引く のは、重要か?

画像1

ん? 必要かも。。

少し前なら、絶対、「必要ない、答えがあってればいいじゃん」派だった。でも今は、そう思ってない。

まず、そう思ってない自分にびっくり。
どうしたんだ、あたし?! なぜ変わったのか?!
算数の授業とは、正しい答えを導き出す時間ではなかったのか?!

あ~~違うかもしれない。
もしかしたらきれいなノートを書く、作る練習の時間かもしれない。
きちんと整理整頓されたノート、手を使って視覚から脳に働きかける
整理するってこういうことよ~と頭に働きかける時間かもしれない!

だとしたら、とっても大事。
それは大人になった時、どれだけ役に立つことか! 大人になってきれいな線を引く機会はほぼないけれど、きっちりやる、きれいに仕上げる、分かり易くする、そんな機会は山ほどある。農具の扱い、畑の種まき区画配分も、釣り道具の扱いも、調理の後片付け、部屋の片づけも、出しっぱなしの洗濯物も、夏休みの予定を立てるのも!

全てこの児童の間の、この学習だったのかも~~! 答えを出すだけと算数を侮り、美しいノートを手掛けてこなかった自分を悔いた。大人になってからそこを直すのは大変で、素直な子どものうちに身に着けるとお得だ。しまった失敗した!気づくのが遅すぎた!

と、我が子たちが頭に浮かぶ・・

うちの子たちは二人とも、ノートが汚い・・というか消しゴムできれいに文字を消せない。消す気がない。いや消す気があるから消しゴムを使うのだけど、消えたという程度が違う。完全に消えてない。その上にまた新たに書くから、自分で自分をどんどん混乱させていく。そりゃー計算、合わないよ。

それはまるで私の草刈り、近所の人と私とでは刈った後の状態がまるで違う。私のほうは五分刈り。ここら辺の人はみんなつんつるだ。いや一応刈ったし・・少し緑があったほうが心が安らぐじゃん・・といつも思ってい・・いや、話が逸れた。

画像2

算数は、答えを出すための時間じゃない。

生活に密接に繋がるよう緻密な計算の上に算数の授業というのは行われているのか?!一処に心を置き、一瞬一瞬に向き合う

それはまるで 禅の世界。

もちろん、裏テーマともいえるその意図が先生にあるのかないのかが重要だ。なければ、ただ、先生のエゴでしかなくなる。くわえて、子どもの質も加味する必要があると思う。もともと几帳面な子にはもう一歩先を指導してほしい。そこまで計算されているのなら、言うことはない。奥が深すぎる。

とその晩、夫に力説したら

「算数? 線はどうでもいいんじゃない?」

終了。


瞑想の基本、心に浮かんだことを膨らませない。

いいなと思ったら応援しよう!