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Inoru・・祈る

息子が修学旅行に出かけた。2泊3日の旅は行き先や日程を変えながら決行された。(*無事に帰宅しました)

息子は時々、こうして家を空ける。1週間くらいのキャンプに参加したり、ひとりで飛行機や電車を乗り継いで私の実家に遊びに行ったり・・心配?もちろん!

初めて新幹線で東京へ行った時は、小1か2か。新幹線の中からわざわざ電話をかけてきた。「母ちゃん、乗れたよ」。1時間後またかかって来た「母ちゃん、さっき電話した時ね、お財布、電話のところに忘れちゃったみたいで探してたら、車掌さんが持って来てくれたんだよ」。そうか、よかったな、丸く収まったなら電話することもないのだぞ、息子よ。でも、その気持ちはよくわかる。

私の初めてのひとり乗り物は、年長さんの時だった。ひとりでバスに乗り、友達の家に行くという計画を立てた。母にバス代をもらい、いざ出発!お友達の家は終点なので乗っちゃえば簡単だ。順調にひとりでバスに乗れたことに興奮し窓の外を眺めていたら・・あれ?・・景色が違う・・そう、わたしは友達の家とは反対方向のバスに乗っていたのだ!なぜなら、母と出かける時に乗るのはいつもそっち行だったから!こっちの終点には友達の家はない!当然、終点で降りてまた反対方向のバスに乗車。と、そのまま終点まで行けばいいものを、我が家のあるバス停で降りた。なぜって・・

お母さんに間違ったことを報告したいっ!

ダダダダと走って家に戻り、玄関先から「おかあさん、まちがっちゃった、はんたい方向のバスに乗っちゃった!」と大声で叫んで、「じゃ、また行ってくるね!」と走り去った。だから、わかる。我が息子が新幹線の中から財布あったよ!と電話してきた気持ちがよ~くわかる。(笑)

その時の母の気持ちを聞いたことはないけれど、「わざわざ言いに来なくていいのに・・」と笑っていたと思う。心配でなかったのかな?と思ったこともない。だって、こどものわたしが「大丈夫かな~??なんて」心配してなかったもの。迷いがない時は大丈夫。どちらかに迷いがある時は止めたほうがいい。長い年月をかけた母とのやりとりでわたしが学んだこと。それを今、わたしは母として、息子と娘と実践している。

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祈ること

ある時、気づいた。子どもと離れる時、私は祈っている、と。一緒にいる時以上に思っている。子どもにとって良い時間となっていることを願っている。願うよりももっと強い、確信してるところがある。ある時、こういうのを祈るっていうのかなと漠然と思い、これが愛ではなかろうか、と閃いた。自分の中の新たな感覚を眺めてみたら、それは心配の波を退け安堵をもたらす。子と私、それぞれひとりであることを実感し、今、一瞬一瞬に全身で向き合っていることを感じる。それは、心配や不安を失くすというよりも、抱擁してしまう、手放すことを恐れないように。

それからは、祈ってる。

一緒にいても祈り見守る人になれるといいな・・けれど、それはとっても難しい。彼らが自分の時間を積み重ねるということは、私はわたしの時間を得るということ。どう生きるか、楽しみたい。うちの子たちは家を出たがってるから、うかうかしてると私の方が取り残される。子どもたちが自立して、私も自立できた時、一緒にいても安らかな気持ちで見守る人になれてるんじゃないかな。今はこの小さな安堵感を積み重ね、その日のために練習中、大丈夫、その日はくる。

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今、祈ってる。

娘がキャンプに行っている。7泊してくる。緊張した面持ちでキャンプインした。わたしは、ことある事にスケジュールを眺めては、「今は海あそびだな」「山探険か」と確認し、”楽しんでるといいな~、ちゃんと眠れたかな~” なんて思いを巡らせる。そんな時間を幸せに思う。



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