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寂しがりやだから。
ここ数年で僕は僕自身に対する解像度がグンと上がってきたように思う。
モラトリアムを経て、僕は何者なのか?という問いが常に頭の片隅にあり続け、必死にそれを解明しようと四苦八苦している。
僕の核は“哲学”だということはわかった。
ただ、ここに至るまでに多くのものを犠牲にしてきたように思う。
未だに未熟な僕だから仕方のなかった、必要な工程だったのだろうと頭では理解しているつもりでも、心の中はどうしようもなく寂しいのだ。
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ラジオだったか、どこかで「人は常に寂しさを埋めようともがいている生き物」だという言説に触れ、まさしくそうだと思った。
僕は、思い返してみれば子供の頃からずっと寂しかった。
家ではしきたりや規則が厳しく、心を休めることができていなかったのかもしれない。
ありのままの僕を肯定してはくれず、型に収めようという力が働いていた。
学校ではその分かなり自由気ままに暮らしていたけれど、それも中学校へ進むことで人種に変化が生じ、やがてスクールカーストのピラミッドへ閉じ込められることに。
心の止まり木を完全に失った僕は、寂しさを抱えていることにすら罪悪感を覚え始めて、やがてその気持ちを表に出さぬように、強く封をした。
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僕は僕という強烈な色眼鏡をかけて世界を見ている。
もはや、僕は僕が眼鏡をかけていることは日常化してしまって、それを作り出したのが僕自身であることをすっかりと忘れてしまっていた。
自己分析を始めたとき、やっとその視界の歪みの存在に気がついたのだ。
そしてその呪いの解呪法をずっと模索している。きっと、自分自身にかけた呪いこそこの世で最も重く、強い呪いなんだと思う。
少しずつではあるけれど、もつれた紐を解くように、ゆっくりと緩めていっている。
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僕は子供の頃、とても活発で、元気いっぱいな少年だった。
無邪気で、疑うことを知らず、よく笑っていた。
きっとそれが本来の僕で、でも段々と、人に褒めてほしいという思いが強まっていった。
「すごい!」
その言葉を聞きたくて、人気者の真似をしたり、運動を上手にやって見せたり、絵を描いてみたり。
でも、どれだけ褒められても、僕の心が満たされることはなかった。
次から次へと、賞賛を求めて何かに励んだ。
勉強はついぞ褒められた試しがなく、頑張ることはしなくなっていった。
きっと、本来の僕を認めて、誰かに大切にして欲しかったんだと思う。
ずっと一人ぼっちで寂しかったんだろう。
その心に開いた穴をどうやって埋めればいいのか、ずっと悩んでいた。
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“鬼滅の刃”の登場人物に「獪岳」というキャラクターがいる。
彼は主人公の仲間である善逸の兄弟子であるが、最終決戦にて突如鬼として善逸の前に立ちはだかる。
彼の心理描写を見た時、自分とそっくりだと思った。
心に穴が開いてしまって、幸せをどれだけ注いでもそこから抜けていってしまう。
だから常に彼は人からの愛に飢え、やがて認めてもらうために(認めてもらえなかったと反発して)鬼に身を堕としてしまったのだ。
だが、一の型しか使えない善逸からすると、獪岳はそれ以外の型を使える、優秀な剣士だったのだ。
この物語を読んでいた時、この答えは出ていなかったけれど、
要は自分の中に“ないもの”を求めるのではなく、“あるもの”を数えるべきだった。
減点方式ではなく、加点方式を採用する。
それだけで、心の器の穴を見つめるのではなく、心の器を少しずつ作っていける。自分のペースで、少しずつ、でも着実に。身の丈にあった幸せを溜めていける。
だから今は、無邪気だった子供の時の僕を、僕がまず大切に抱きしめてあげないと、と考えている。まだ、どうすればいいかはわからないけれどね。
いつになるかはわからないけど、僕が僕に寄り添ってあげることが出来る様になったら、他の誰かに必要とされたいと思う。
ここにいて良いと許してもらうんじゃなく、ここにいて欲しいと言ってもらいたい。
それは技能や人脈といった理由ではなく、一人の人間として。
誰かに必要とされる人に僕はなりたい。